第12話

 「……なんか、最近おかしいんだ」


 彼がそう言ったのは、ふたりでカフェに入った日のことだった。


 表情は曇っていた。

 でも、どこか“弱さ”を見せてくれているようで、私は内心ぞくりとする。


「何が?」


「いろんなことが、思い出せない。

 何を目標にしてたかとか、

 誰のことを大事にしてたのかとか、

 ……全部、すこしずつ曖昧になってる」


「それって、私と過ごす時間が増えたから?」


「たぶん、そう……だと思う」



 私が笑うと、彼はうつむいた。


 罪悪感。自己嫌悪。喪失。


 それら全部に蓋をして、私との関係を正当化したいだけ。


 私はそれに気づいていたし、むしろ誘導していた。


「ねえ、許してあげる」


「……え?」


「あなたが彼女を裏切ったこと。彼女が大学に来れなくなったこと。

 私とこうして会ってること……ぜんぶ、私が悪いってことにしていいよ」


「……」


「ぜんぶ、あの子のせいにしていい。

 あの子があなたを束縛しすぎたから、

 あなたは私に逃げてきただけだって、そう思えば、楽でしょ?」



 彼の目が、じわりと濡れた。

 でも、それは涙じゃない。逃避のサインだ。


 そう、彼は逃げたいだけ。

 私というぬるま湯のなかに。



 帰り道、私は彼の手を強く握った。


「ねえ、今夜……泊まってく?」


 彼は黙って頷いた。



 夜。

 体を重ねたあと、私は彼の耳元で囁く。


「ねえ……ほんとはずっと言いたかったの。

 あの子に感謝してる。あの子がいたから、あなたは壊れた。

 あなたが壊れたから、私だけを必要としてくれるようになったんだもん」



 彼は何も言わなかった。


 けれど、目を閉じたまま、私の手を握り返した。


 それでいい。

 言葉なんて、もういらない。


 彼の世界には、私しかいない。

 私が彼の現実であり、真実であり、救いであり、呪いであり――


 快楽であることが、なによりも幸福だった。

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