第6話

 金曜の帰り道。

 雨上がりのアスファルトには、街灯が淡く映り込んでいた。

 彼の隣を歩く私は、もう何度目かになる“並び方”に、少しずつ慣れてきていた。


 いつもより静かだった。

 彼は、何かを考えている顔をしていた。

 口を開きそうで開かない、そんな顔。


「……華」


 その名前の呼び方が、少しだけ変わっていた。

 今までよりも、距離が近い。


「うん?」


 振り向いた私の視線を、彼は一度受け止めてから、逸らした。


「最近、夢に出てくるんだ。お前が」


「……どんな夢?」


「わからない。ぼんやりしてる。でも……」


 その先を言えないようだった。

 私は小さく笑って、彼の手を取った。


「じゃあ、今夜ははっきりさせようよ。夢じゃなくて、現実で」


 彼の手が、ぎゅっと強く握り返してきた。

 それは、もう“言い訳”のない強さだった。



 最寄りのマンション。

 何度か通ったことのあるエントランス。

 だけど、今日は違う。


 彼が先に鍵を開け、無言のまま私を迎え入れる。

 靴を脱いで、廊下を抜けて、リビングのソファ。


 「座ってて」


 そう言われて頷いたけれど、私は彼の手を離さなかった。


「ねえ、彼女の物……まだこの部屋にある?」


「……うん」


 私は静かに笑った。

 まるで、自分が“訪問者”だと自覚するように。


「じゃあ、今日はその“痕跡”の上から、私の匂いを重ねるね」


 彼は何も言わなかった。

 だけどその手は、私を強く引き寄せた。



 キスは、あっけなかった。

 ためらいも、戸惑いも、すべて飲み込んで。

 唇が触れた瞬間、世界が一瞬、凍ったようだった。


 次に動いたのは、彼だった。

 唇の角度を変え、重ねてくる。

 熱を持った呼吸が、私の頬を撫でる。


 誰よりも優しい男のキスは――

 いま、誰かを傷つけるためのものだった。


 その背徳が、たまらなく甘かった。



 ベッドには行かなかった。

 彼が、それを拒んだから。


「……そこだけは、まだ、嘘をつきたくない」


 そう言った彼を、私は責めなかった。

 むしろ――愛しかけてしまった。


「じゃあ、ちゃんと好きになって。私のこと」


「……もう、なりかけてる」


 言葉じゃなく、指先がそれを証明していた。

 触れるたびに、何かが壊れて、何かが満たされていく。


 この夜を超えたら、もう戻れない。

 でも、それでいいと、私も彼も思っていた。



 帰り際、玄関で。

 私は振り返って、微笑んだ。


「もう、“彼女”って言葉、使わなくなったね」


 彼は何も言わず、少し困ったような顔をした。

 それが――答えだった。

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