第5話
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「……キス、しないの?」
言葉にしてしまったのは、私のほうだった。
雨のベンチ、繋いだ手の温度。
彼の目が私の口元を見つめたまま、動かなかったから。
「……ダメだよ、そんなの」
ようやく絞り出したような声で、彼は呟いた。
けれど、手は離れなかった。
「なんで? ダメな理由、ちゃんと言ってくれる?」
詰めるつもりはなかった。
でも、この空気を、壊したくなかった。
彼が口を閉ざしたまま、ゆっくり視線を逸らす。
唇が、震えていた。
罪悪感なのか、迷いなのか、それとも――欲望か。
私は笑ってみせた。
「じゃあ、キスしない。今日は、これで終わり」
彼の顔に、僅かな安堵が浮かんだのを見逃さなかった。
でもその安堵は、私の中に奇妙な“飢え”を残した。
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その日から、彼は私を避けなかった。
むしろ、以前より近くなった。
「今度の中間、ペア課題一緒にやらない?」
「……いいの? 俺、足引っ張るかも」
「じゃあ引っ張られてみたいな、たまには」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
彼の笑顔は、もともと誰にでも優しいものだった。
でも今の笑顔には、私だけが知っている“迷い”が混じっている。
そういう表情を、自分しか知らないという優越感。
それが、私をまた一歩、深く引きずり込んでいった。
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金曜の夜、図書館はガラガラで、ペア課題には最適だった。
私は彼の隣に座って、肩が触れるくらいの距離を保った。
彼がページをめくるたびに、私はその音に呼吸を合わせた。
そのうち、彼が手を止めた。
「……俺、彼女に嘘ついた」
不意に零れた言葉だった。
私は声を出さずに、ただ彼を見つめた。
「今日、お前と会ってること。言わなかった」
言い訳のように、でもどこか甘えるように。
私は首を傾げて、小さく微笑んだ。
「言わなくていいよ。……私、“浮気相手”でいいから」
彼の目が、ゆっくり私のほうを向いた。
その瞬間、息が詰まるほどの緊張が走った。
「本当に、それでいいの?」
問いかけたのは、彼のほうだった。
――私に、試すような目を向けながら。
「よくない。でも、そうでもしなきゃ手に入らないんでしょ?」
笑いながら言ったけど、心は震えていた。
本当は、“浮気相手”なんて冗談じゃない。
本当は、“彼女”を引きずり下ろして、そこに座りたい。
でも、焦らない。
この男が私を選ぶように、自然に――ゆっくりと。
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図書館を出て、駅までの道。
「なあ、蒼井さん」
彼がぽつりと名前を呼んだ。
呼び捨てじゃない。まだ一線は超えていないという証。
「……名前で呼んでよ」
そう言った私の声は、思っていたより小さかった。
でも、彼はちゃんと聞いていた。
「……華」
夜風が吹いた。
その音で、世界の音が少しだけ遠くなった気がした。
そして、彼は言った。
「俺、彼女のこと……もう、前みたいに思えなくなってる」
その言葉に、心臓が跳ねた。
でも、私は笑わなかった。
「私のせい?」
「……たぶん」
小さな告白。
嬉しいのに、痛い。
勝っているのに、苦しい。
でも、その痛みすら――心地よかった。
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