第4話

 雨が降った日の教室は、独特の匂いがする。

 濡れた傘と、蒸れた空気と、漂う柔軟剤の香り。

 それに混じって、隣の席から時折ふっと香る彼の匂いが、最近やけに気になっている。


「……蒼井さん、今日もありがとう」

 いつものように、彼は私が差し出したノートを丁寧に受け取る。


「悠真くんが頑張ってるの、見てるから」

 自然と笑顔が浮かぶのは、自分でも不思議だ。


 最初は、“彼女のいる人”だった。

 だから距離を保っていた。

 でも最近は、その“彼女”の話が出てこなくなった。


 それに気づいたのは、たぶん私だけじゃないと思う。

 でも、きっと私だけが――喜んでいる。



 放課後、誰もいないゼミ棟の自習室。

 空調の音が微かに響く中、彼は黙って問題集に目を落としている。

 私はその隣で、わざと何も言わずに、彼の指先を見ていた。


「……集中、できてる?」

「うん。できてる、と思う」


 その“と思う”が気になって、私は彼の顔を覗き込んだ。

 頬にかかる前髪を、そっと指先で払う。


 彼は抵抗しなかった。

 ――むしろ、動けなかったみたいに見えた。


「最近、元気ないね」

「……そう、見える?」


「うん。ちょっとだけ」


 沈黙の中で、私はそのまま距離を詰めた。

 顔が近づいて、視線がぶつかる。

 彼は目を逸らさない。

 それが“拒まれてない”証拠だと、都合よく解釈する。


「彼女とは、最近どうなの?」


 小さな棘を仕込んだ言葉。

 彼は、少しだけ目を伏せて――答えなかった。


 それだけで、十分だった。



 自習の後、駅までの帰り道。

 傘を差す彼の右腕に、私は自然と手を添えていた。


「……ねえ、手、冷たい」

「ごめん。雨、冷たいな……」


 私は彼の指先を包むように握った。

 傘の下で、人通りも少ない夜道。

 繋いだ手の感触は、思ってたよりも――やわらかかった。


「彼女の手と、どっちがあったかい?」


 そう聞いた私に、彼はまた、答えなかった。


 でも、手を離さなかった。



 駅前のベンチで少しだけ休憩。

 ベンチの背もたれにもたれながら、彼はぽつりとこぼした。


「最近、あんまり連絡してなくて。……向こうも忙しいみたいで」


 その声は、どこか疲れていた。

 私は言葉を選ぶふりをして、少しだけ唇を噛む。


「……じゃあ、代わりに私が癒してあげる」


 そのとき、彼がふっとこちらを見た。

 少し驚いたような顔。

 でも――否定じゃなかった。


 私はその視線に、静かに応えた。

 膝の上に置いた手が、彼の指先にそっと触れる。


 雨の音に紛れて、誰の声も届かない。

 キスをするには、十分すぎる距離だった。

 でも、私はしなかった。




 

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