第2話

 高槻悠真が“ひよりと喧嘩したらしい”と知ったのは、たまたま……じゃない。

 私が彼のSNSの裏アカウントを知っていて、深夜にストーリーをこっそり確認していたから。

 投稿されていたのは、ただの真っ黒な背景に、白文字でこう書かれていた。


 《価値観が違う、って言われた。何が正しいんだろうな》


 わかりやすすぎて、笑ってしまった。


 だから翌日の午前、私はたまたまを装って、大学の図書館に向かう。

 彼がいつも来る時間。

 誰にも言わないまま、静かに“偶然”を演出する。


   ◇


 「……悠真くん?」


 静かな閲覧室の隅。教科書を開いて項垂れている彼に声をかけると、びくっと肩を揺らした。

 目の下に、少しだけクマがある。寝てないんだろうな。


 「……あ、華ちゃん」


 「あ、ごめん、びっくりした? なんか暗かったからさ」

 「ううん、ちょっと考えごと、してただけ」


 いつもの笑顔。

 でも、ほんの少しだけ、目が泳いでいた。


 「……彼女と喧嘩したんでしょ」


 唐突に切り込んだ私に、悠真は少し戸惑った顔をした。

 でも、拒まなかった。むしろ、そのまま小さくため息を吐いて――


 「……なんで、わかったの?」

 「なんとなく。顔に書いてあったから」


 私は隣に腰を下ろしながら、少しだけ身を寄せる。

 触れない距離。指先が空気を掠めるだけの距離。


 「話したいこと、あったら聞くよ? ……言いたくないなら、それでもいいけど」


 その一言が、彼の中の“限界”を超えさせたんだと思う。


 「……ひよりは、すごくいい子なんだ。頑張り屋で、気配りできて、俺なんかじゃ釣り合わないくらい」

 「うん、わかる。いい子だと思う」


 「でも……最近、“変わってない”って責められて。もっと成長してって、もっと未来を見据えてって……」

 「……プレッシャー、だね」


 悠真は、はっとしたようにこっちを見た。


 「……そう。プレッシャーって言葉、まさにそれかも」

 「好きな人から“変われ”って言われるの、つらいよね」


 彼はうつむいて、小さく笑った。


 「変わりたい気持ち、ないわけじゃない。でも、なんか、追いつけないんだよね。焦るばっかで」


 私は、そっと彼の手にコーヒーの紙カップを差し出した。


 「はい、あったかいの。無糖だけど、苦くないよ」


 受け取った彼の指が、少しだけ震えていた。

 そこにあるのは疲れ。迷い。そして――誰かに甘えたいという“欲”。


   ◇


 「……ねえ悠真くん」

 「ん?」


 「私さ、悠真くんの“変わらないところ”、好きだけどな」


 静かな閲覧室。空調の音だけが響く中で、その言葉は落ちていく。


 彼の肩が、ほんの少しだけ揺れたのが分かった。

 顔を見ないようにして、私は静かに続ける。


 「無理に変わらなくてもいいと思うんだ。人のペースって、それぞれだから」

 「……でも俺、置いてかれそうで」

 「ううん。追いかけるんじゃなくて、隣にいられる人が、一番強いんだよ」


 私は笑って見せた。心から――じゃない。

 でも、“彼が求めていた言葉”だけを、確実に届ける。


 そしてそのまま、そっと小声で、囁いた。


 「……だから、私は悠真くんの隣にいたいって、思ってる」


 その瞬間、彼の呼吸が一拍だけ、止まったのが分かった。


 指先はまだ触れてない。

 でも、“心”は――すでに、触れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る