廃墟の町、ピザの町(1)
レオンの街に入り、ふと空を見上げると、正面の空に7色の気球が浮かんでいた。視力測定の機械に映し出される気球にそっくりだ。ゆっくりと南へ移動していく様子を目で追いながら、まるで街そのものが僕を歓迎しているかのような気がした。小さな町や村を抜けてきた後だと、都市を目にするだけで不思議と気分が高揚する。
でも、今日は日曜日で、路上を歩く人影はまばらだ。朝の涼しい空気の中を黙々と進むのは心地よく、アスファルト舗装の道は砂利道に比べて格段に歩きやすい。足元への負担が少ないおかげで、歩調も自然と軽くなる。
人通りのない街並みで、黄色い矢印を頼りに進んでいく。レオンは大都市のわりに、壁や地面には手書きの矢印が点々と残されていた。これが本当に重宝するのだ。「公式」の帆立貝のマークもたまに見かけるけれど、あれだけでは迷える巡礼者を導くには心許なすぎる。
道標にしたがって左に曲がり、しばらく進んだかと思うと今度は右に曲がる。なんだか遠回りさせられている気がしないでもないけれど、黄色い矢印には逆らえない。
街の外れでは住宅ばかりが目についたけれど、中心部に近づくにつれ商店の数が増えてきた。といっても、日曜日に開いている店はほとんどない。ガソリンスタンドに併設された売店は数少ない例外で、冷えた炭酸水のペットボトルを1本購入した。水は買える時に買っておくというのが巡礼の鉄則だ。
レオンにはローマ時代の城壁が今もなお残っている。城壁に囲まれた旧市街は、これぞヨーロッパという雰囲気に満ちている。年代を感じさせる石造りの建造物に挟まれた狭い路地をずんずんと進んでいくと、視界が急に開けた。
広場の向かい側に、セレブ御用達の豪華ホテルを思わせる建物がドーンと建っている。壁は白みを帯びたグレーのレンガ造りで、単三乾電池を二つ、三つ横に並べたような形状の窓枠が左右対称に配されている。正面玄関の上にはワニに剣を突き立てる騎士のレリーフがあしらわれている。重厚感のある建物なのに不思議と雰囲気が柔らかく感じるのは、四隅に突き出た円柱状の塔――パラソルチョコそっくりのとんがった屋根が乗っている――のせいかもしれない。思わず見とれてしまう。
豪華ホテル風建築と向き合うようにベンチが置かれ、一方の端っこにはヒゲのおじさんが腰掛けていて、その反対側の背もたれには一羽の鳩がちょこんととまっている。このおじさんの名前はアントニ・ガウディ。正面のカサ・ボティネスを手掛けた建築家だ。
ガウディといえばサグラダ・ファミリアであまりにも有名で、バルセロナ市内の一連の建築群は世界遺産にも指定されている。でも、僕はバルセロナ以外にもガウディ建築があることを知らなかった。もし今日のゴールがレオンだったら、ぜひ中に入って見学したかったけれど、それはあきらめるしかない。せめてもの記念に、行き交う巡礼者に越えをかけ、ガウディとのツーショット写真を撮ってもらった。
さて、この先はどっちへ進めばいいんだろう。
広場の中央で足を止め、周囲を見回してみたものの、黄色い矢印も帆立貝も見当たらない。ここが僕の迂闊なところで、迷った時は地図アプリとガイドブックを照らし合わせて現在地を確かめるべきだったのに、深く考えないまま、先ほど写真を撮ってくれた巡礼者の後を追って歩き始めてしまった。
でもこれが大きな間違いで、方角的には確かにレオンの出口に向かっていたものの、正規の巡礼路を外れてしまった。そのせいで、レオン観光で絶対に外せないゴシック様式のレオン大聖堂、スペイン屈指のステンドグラスの美しさを誇る重要文化財を見逃してしまった。大聖堂を素通りするというのは巡礼者としてどうかと思うが、仕方ない。
しかも、前を行く巡礼者の姿すら、いつの間にか見失ってしまった。目立つ建物を目印に右往左往しつつ、レオン郊外でどうにかカミーノに復帰できた。長い遠回りだった。
ホッと胸をなで下ろしつつも、「だから大きな街は嫌なんだよな……」とつぶやく。レオンの街に足を踏み入れた時の高揚感とは正反対の思いを抱きながら、再びカミーノを歩き始めた。
郊外とはいえ、レオンほどの規模の街だと住宅や店が途絶えることはない。むろん、道だってアスファルトの舗装道路だ。
その道の途中、巡礼者への「接待所」を発見した。テーブルの上に果物や飲み物が山積みになっている。僕は搾りたてのオレンジジュースを紙コップに注いでもらった。代金は「ご厚意で」というので寄付箱に2ユーロ硬貨を落とした。が、その直後、ちょっと払い過ぎたなと後悔した。2ユーロあれば普通に缶ジュースが買える。こういう場面で、つい計算してしまう自分がなんとも情けない。
ジュースを一口飲みながら、接待所のおじさんに尋ねた。
「今日は朝からほとんど巡礼者を見かけないんですけど、おじさんはどうですか?」
「私は朝7時からここにいるけどね、君が今日の一人目だよ」
思わず腕時計を確認すると、もうとっくに10時を過ぎている。僕より早くレオンを出た巡礼者が誰もいないはずがない。となると、僕が歩いているルートとは別に、もうひとつ道があるのかもしれない。
そういえば、心理学者のスチュアートは今回の巡礼をレオンで打ち切ると話していた。同じことを計画している巡礼者は多いのかもしれない。だから、レオン郊外を歩いている巡礼者が少ないのだろう。でも、そんなことはないかとすぐに思い直した。逆に、レオンから新たに歩き始める人も大勢いるはずだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、ラ・ビルヘン・デル・カミーノの町に入っていた。町と町がつながっているので風景も連続的に変わっていく。
色とりどりのマンションやホテル、レストランが軒を連ねる目抜き通りを抜け、町の外れへと進むとようやく建物が減り始めた。ここから先、今日のゴールまでは12キロ。国道と並走する歩行者用の砂利道を、ひたすら歩き続けるだけだ。
突然、「あれ、給水は大丈夫だよな?」と不安がよぎった。周囲を見回しても、近くに店があるような感じじゃない。静かな郊外の一本道が続いているだけだ。朝方にレオンのガソリンスタンドで買った炭酸水はペットボトルに半分ほど残っているものの、すっかり生温かくなり、まあ気休め程度といったところ。この先12キロ歩くことを考えると、とてもじゃないけど足りるはずがない。
最高気温が31度しかないとはいえ、真夏なのだ。さっきまではずっと町なかを歩いていたから、喉の渇きを潤せるカフェやバルがどこにでもあった。その感覚が抜けていなかったのだ。
慌てて地図を確認すると、4キロ先と6キロ先にそれぞれ村がある。ほっと胸を撫でおろすと同時に、背筋が冷たくなった。カミーノを淡々と進むことに慣れすぎて、基本的な注意力が欠けていた。
道沿いに小さな茶色の教会がぽつんと建っている。レンガ造りのシンプルな造りなのだが、鐘楼とそれを支える土台部分に違和感がある。何がおかしいと言って、鐘楼は古びたレンガ造りなのに、土台だけが真っ白なコンクリートの打ちっぱなしで、完全にちぐはぐしている。もともとの土台が崩れてしまい、後からコンクリートで修復したのかもしれない。
でも、僕の目にもっと異様に映ったのは、張りぼてのように平べったい鐘楼を覆い尽くす巨大な鳥の巣だ。見た目はカツラそっくり。カツラのてっぺんから十字架が生えている。
最初は小さなツバメの巣だったのかもしれない。それが誰も気にとめることなく放置され、次第に面積を広げ、鐘楼全体を覆うほどの巨大な塊になったのだろう。さすがに撤去しようという声が上がった一方で、特に害もないし、可哀そうじゃないか、という意見もあった。どちらにも決まり手がないまま時間が経ち、とうとう巨大なカツラが出来上がってしまった。……なんて、勝手に想像してみる。
でもまあ、これはこれでいいか、
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