2つの王国(5)

 高架橋を視野に入れながら歩き続け、午後2時を少し回った頃、エル・ブルゴ・ラネロの町に到着した。今日、僕はこの町のホテルを予約していたのだ。ホテルというとずいぶん奮発したように聞こえるけれど、実際には普通のオスタルよりもむしろ安いくらいで、お得感につられて決めた宿だった。


 ところが、町の目抜き通りを端から端まで歩いてみても、予約したホテルがどこにも見当たらない。おかしいなあと思って地図アプリを開いてみると、僕が今いる地点からは離れているように思える。嫌な予感がする。アプリに誘導されながら歩いていくと、町の中心地からどんどん遠ざかり、とうとう町を抜け出てしまった。


 おいおいと思いながらさらに歩いていくと、前方にデカデカと「HOTEL」と掲げられた看板が見えてきた。町へ向かう途中、カミーノからもはっきりと見えていた看板だった。カミーノから外れているし、あんなに離れた場所に泊まったらさぞ不便だろうなあと、あの時はぼんやり考えていたのに、果たしてそこが今夜の僕の宿だった。

 がっかりしかけたものの、実際にたどり着いてみると、町の外とはいえ、カミーノから1キロほどしか離れていない。せいぜい15分の距離だ。よかった、まずはひと安心。


 中に入ってみると、高速道路のサービスエリアを思わせる、ガソリンスタンドとコンビニとレストランとホテルがひとつにまとまった施設だった。これはかえってラッキーだったかも。なぜなら、レストランもコンビニも24時間営業だから、いつでも食べ物や飲み物が手に入る。とりわけ、夕飯の時間帯を待たずにちゃんとした食事がすぐに食べられるのが嬉しい。


 さっそくシャワーと洗濯を済ませ、階下のレストランへ向かった。扉を開けると、午後3時にして店内はほぼ満席。席を埋め尽くしているのは明らかに巡礼者ではなく、旅行中らしいスペイン人の家族連れだ。


 この時間帯、普通のレストランならとっくにキッチンを閉めているはずだ。それでも、これだけの客が集まるのだから、やっぱりスペイン人だって、本音ではこの時間に食事をしたいんじゃないか? ひょっとすると、ディナータイムも同じかもしれない。そもそも、スペインの遅すぎる夕食習慣は、19世紀の労働時間の名残だと聞いたことがある。長い昼休みのせいで仕事の終わりが遅くなり、結果として夕食時間も後ろにずれてしまったとか。


 けれども、目の前の光景を見る限り、夕飯は早くても午後7時から、という「スペイン時間」はそのうちきっと消滅するに違いない。


 * * *


 昨日より30分早く起きたのに、のんびりと準備をしていたせいで、歩き始めたのは結局昨日と同じ7時20分。気温16度、昨日よりわずかに暖かい朝だ。

 歩きながらふと、影の伸びる方向がいつもと違うことに気が付いた。日の出と重なるこの時間、普段なら真正面に長く伸びる自分の影を追いかけるように歩くのに、今日は左手に広がる畑に影が落ちている。つまり、今僕は北西に向かっているということだ。


 この時間に歩いている巡礼者は僕ひとりじゃなく、前方にも後方にも小さな人影が点々と続く。時折、自転車が僕を追い抜きざまに「ブエン・カミーノ!」と声を掛けていく。


 少し先で、二人の巡礼者が道端の交通標識を指さしながら何か話していた。「何かあったの?」僕が訊ねると、「ほら、これ。面白いじゃない?」。


 指さされた標識を見て思わず笑ってしまった。「鹿に注意!」の三角標識はありふれたものだけど、標識の中の鹿に翼と長い尾が黒マジックで書き加えられている。なるほどね、「ペガサスに注意!」。


 スペインに限らずヨーロッパでは至る所で落書きを目にする。駅の壁、鉄道車両、トンネル、橋脚、エトセトラ、エトセトラ。ありとあらゆる場所に派手なグラフィティが描かれている。交通標識や案内板も例外ではない。個人的には、看板や標識はそのままの方がスッキリしていて美しいと思うけれども、これは文化や価値観の違いのせいかもしれない。とはいえ、法律的にはどうなんだろう? スペインでも、やっぱりこういう落書きは違法なんだろうか?


 落書きと聞いて思い出すのは、州が設置した巡礼道の道標だ。州ごとにデザインはバラバラなのだが、カスティーリャ・イ・レオン州の道標は統一されていて、黄色い矢印と帆立貝のシンボルが描かれた青色の正方形が縦か横に配されて、その下に州名が記されている。そして、この州名の一部がペンキやスプレーで塗りつぶされていることがやたらと多いのだ。


 カスティーリャ・イ・レオン州に入った直後は「イ・レオン」が消されて「カスティーリャ」だけが残っている道標をいくつも見た。それが、今では逆に「カスティーリャ・イ」が塗りつぶされて「レオン」だけになっている。


 スペイン語の「イ(y)」は「&」を意味するので、カスティーリャ・イ・レオンという州名は文字通り、「カスティーリャ」と「レオン」という二つの地名を並べた名前になっている。歴史的に見れば、スペインの原型であるカスティーリャ王国は、周囲の王国とくっ付いたり離れたりを繰り返しながら徐々に勢力を拡大していった。レオン王国もそうした国のひとつだ。


 あまりぴったりの例えではないかもしれないけれど、日本だったら「奈良・京都県」という県名みたいな感じ。どちらも歴史ある旧都を擁する地域なので、もしそんな名称が付けられたら、奈良の住民も京都の住民も「奈良・京都なんて一括りにするな! 自分たちは奈良だ(京都だ)!」と反発するだろう。その感情が、ここでは道標の州名を塗りつぶすという形で現れているのだ。


 話が少し横道に逸れるけれど、スペイン人には自身のアイデンティティ意識がはっきりしていて、独立志向の高い人が多いような気がする。前にも触れた、バルセロナを含むカタルーニャの独立運動は有名だ。カタルーニャに住む人に国籍を尋ねると「カタルーニャ人」と答えたりする。ナショナリストならぬ、「コミュニティスト」とでも呼ぶべき人がここにはたくさんいるのだ。


 * * *


 ようやく見えてきたレリエゴスの町の入り口で、道沿いにぽつんと建つカフェに立ち寄ることにした。店内に入ると中はお香の匂いが充満していてむせそうになった。これじゃ食べ物の味が分からなくなるんじゃないか。店内を見渡すと壁一面に「招福」の文字が書かれた縁起物や虎の絵画が飾られていて、まるで中華料理屋だ。スペインのカフェとは思えない。カウンターに並んでいるトルティージャやクロワッサン、ケーキなどが完全に浮いてしまっている。


 トルティージャとカフェコンレチェ、それとチョコクロワッサンというおなじみの朝食を注文した。味は普通に美味しくて、別に中華風ということはない。


 食べ終えて席を立とうしていた時、白い髭を長く伸ばした仙人を思わせる風貌の主人に声を掛けられた。


「韓国人か?」


 この店の内装からすれば、そこは中国人かと訊ねるべきだろう。


「いえ、日本人です。日本から来ました」


「おお! 日本は私の一番好きな国なんだ!」


 ツッコミどころが満載でどこから手を付けていいのか分からないけれど、仙人の日本好きは本当のようで、正面の壁際に鎮座する大きな香炉の隠し扉をスッと開けて、中から野口英世の千円札を取り出して僕に見せた。どう反応していいのか分からず、「すごいですね」とひとまず相槌を打っておく。仙人も満足そうに頷いた。


「ちょっと来てみてくれ」


 彼の後についていくと、カフェの奥にはもう一つ別の部屋があった。中に入ると、高さ50センチほどの仏像と、壁に飾られた3本の日本刀が目に飛び込んできた。まさかスペインの片田舎で日本刀を目にするとは思わなかった。仏像の胸元にネックレスがかけられていて、どうやらそれも日本と関係があるらしいけれど、仙人のスペイン語が早すぎて、何を言っているのかよく分からない。でも、ひとまず「へえ!」と感心したように頷いておいた。


「これも、日本のサムライだろう?」


 そう言いながら彼が指差した先には人物画がかかっていて、武士というより、横山光輝の『三国志』に出てくる武将と似ている気がする。僕が思ったことをスペイン語で説明するのは無理なので、感想を無理やり飲み込んで「そうです」とだけ答えた。仙人は満足げにほほ笑んでくれた。


 彼の日本愛が本物であることはひしひしと伝わってくる。だから、今後はせめて、店の軒先にぶら下げた各国の国旗に日本も加えておいて欲しいと思う。

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