廃墟の町、ピザの町(2)
道沿いに広がる家庭菜園の前を通りがかると、ブロック塀の上にミニトマトやプラムがぎっしりと詰まったバスケットが置かれていた。傍らのボール紙に手書きのメッセージ。
「私の畑から巡礼者のあなたへ。愛を込めて」
どうやら、この塀の向こうの畑で採れたものらしい。「寄付をお願いします」の一文がどこにもないのが、個人的には好ましかった。
正午を少し過ぎた頃、小さな村にたどり着いた。路上に「巡礼定食」の看板が立てかけられているのを見つけると、自然と足がそっちに向かった。朝食を抜いたせいで腹が減っていたのだ。
村の名前は、スペインでポピュラーなビールの銘柄と同じ「サン・ミゲル」。それが理由ではないけれど、注文時に飲み物を選ぶ時、結局ビールを頼んでしまった。
「セットのお飲み物は、水とビールのどちらにしますか?」
このふたつならビール一択だ。僕じゃなくてメニューが悪い。
ビールを飲んでいると、煮込んだパプリカ、ズッキーニ、オニオンのスパゲッティが運ばれてきた。塩気がしっかり効いている。メインのポークもポテトも、運ばれてくるなりあっという間に平らげてしまった。どれも美味しかった。
大満足のランチを終えて店を出る。宿まではあと2時間だ。
ところが、歩き出して数分もしないうちに、足元が少し頼りなくなってきた。わずか1杯のビールなのに、体の芯がふわふわと浮いているような感覚がする。やっぱり、歩いている最中に飲むもんじゃないな……。
給水の確保といい、道中での飲酒といい、どうも気分が緩んでいる。明日からはもっと気を引き締めないと。さっきまでの充実感が一転し、軽い自己嫌悪に陥った。
* * *
翌朝は普段よりも遅めのスタートだったので、歩き出して1時間もしないうちにちょうど朝食の時間帯を迎えた。ひと息つこうと思い、たまたま目に留まったアルベルゲ併設のカフェに入ることにした。店内は僕と同じような巡礼者たちで混み合っていて、店員の女性がバーカウンターの中で忙しそうに動き回っている。
店員の手が空いたらカフェコンレチェを注文しようと思い、カウンターの前で大人しく順番を待つことにした。そのうち、女性は5人分のカフェコンレチェを作り終えると、「あなたはカフェコンレチェだっけ? あなたも?」と僕の両脇にいたおっさんに声をかけた。僕を完全にスルーして。
たぶん、カウンターの前でぼんやり立っていたせいで、この店の宿泊客だと勘違いされたのかもしれない。でも、そうだとしても、僕はさっきからここにいるのだから、おっさんよりも先に声をかけてくれてもいいじゃないか。僕はムッとして、トイレだけ借りるとすぐに店を出てしまった。
本当は、こんなのは全然大したことじゃない。こっちにもカフェコンレチェひとつ、と言えば済むだけの話。たぶん、気持ちの問題なのだ。
振り返ってみると、一昨日あたりから、なんとなく歩くのが億劫になっていた。
いや、歩くこと自体が「楽しい」と思ったことはそもそもない。1日に30キロも歩けば、そんな気分になれる人はそうそういないだろう。でも、そういう話ではない。
今までは、前へ進むことが楽しかった。「ウルトレイヤ! もっと先へ!」という声を抑えるのが大変だったくらいなのに、今は自分を励ますために「ウルトレイヤ!」と声に出さないと歩けないほどだ。いったいどうなってしまったんだろう?
昨日と同じように、国道120号線に沿った砂利道をとぼとぼと歩いていく。
前方から何やらガーガーいう音が聞こえてきた。どうやら、前の方に見えている大きなブナの木が音源のようで、近づくにつれて音が大きくなっていく。
そして、とうとう正体が分かった。カラスの大合唱だ。たくさんのカラスの姿が枝葉の間に見える。どのくらいいるんだろう? 100羽なんてもんじゃない。枝分かれした部分に、木の枝を寄せ集めた巨大なカラスの巣がいくつも見える。東京に住んでいればカラスなんかしょっちゅう目にするけれど、巣を見たことは一度もない。少し不吉な気配を感じて思わず足を止めた。
さっきの町で取り損ねた朝食をオスピタル・デ・オルビゴで食べることにした。町の入り口近くの建物に、古い時代の町並みを写した写真が貼ってある。
基本的にはどこで食べても同じだと思い、最初に目についたレストランに入った。すぐに、正面の冷蔵ケースに並んだ色鮮やかなサラダが目に飛び込んできた。朝の10時台という時間帯にサラダを食べようなんて考えるスペイン人はまずいない。2、3人前くらいの分量があるサラダがいかにも美味しそうで、これは絶対に外せない。
レジ横のショーケースに目を移すと、具材の違うトルティージャが3、4種類も並んでいる。これも珍しい。普通はトルティージャといえば中身はジャガイモだ。
結局、僕が選んだのはたっぷり野菜のグリーンサラダ、ハムとチーズのトルティージャ、りんごケーキ、それとカフェコンレチェ。勢い込んでずいぶんと頼んでしまったけれど、小一時間くらい休憩するつもりでゆっくり味わうことにした。
巡礼を始めて以来、圧倒的に野菜不足だったので、とにかくサラダが美味しい。トマト、レタス、コーン、ツナ、茹で卵、そしてオリーブがたっぷり盛られている。スペインはオリーブの生産量世界一だ。初めて食べたハムとチーズのトルティージャは、しっかりとした食感と濃厚な味わいがたまらない。グラスにたっぷりと注がれたカフェコンレチェを飲むと気分が落ち着いた。
店内をゆっくりと見回すと、色んな国の紙幣がきちんと額装されて、壁に飾られていた。縦横に20枚くらいの紙幣を敷き詰めたポスター額が5個。それと、スペインの1万ペセタ紙幣だけが単独で小さなフレームに収められている。ペセタは2002年にユーロに切り替わる前のスペインの通貨単位だ。
それらの中には我が日本国の千円札もしっかりと収まっている。そういえば、数日前にも日本びいきのオーナーが経営する中華風レストランで野口英世を見た。
ひょっとしたら、ここに立ち寄った巡礼たちが置いていった記念の品なのかもしれない。誰かが最初に置いていくと、その後は自然に増えていく。巡礼2日目に見た石塚も写真や国旗があふれ、まるで巡礼者の思いが堆積していくかのようだった。あるいは、昨日の鳥の巣だって同じと言ってもいい。最初は小さな巣だったものが、時間とともに拡張されて、ついには鐘楼全体を覆う巨大なカツラになった。
でも、やっぱりこれはオーナーのコレクションなのだろうなと思いなおす。レストランやアルベルゲに立ち寄った巡礼が「現金」を残していくはずはない。僕だったら千円札は惜しい。
レストランを出るとすぐに、オルビゴ川に架かる長く大きな橋が現れた。川幅は橋げたのアーチ2つ分しかないものの、その先は陸橋として続いており、さらにその向こうに教会の尖塔が突き出ている。
そして、この橋がとても美しい。通路も壁も、白、ピンク、茶色、黒と、色んな色の丸みを帯びた石を無造作にコンクリートで固めてある。サイズは大小さまざまで、握りこぶし大から小型のスイカほどの大きさのものもある。だから足元はゴツゴツしていて、決して歩きやすくはないけれど、見た目の美しさに目を奪われて歩きにくさなどはまるで気にならない。
青空がどこまでも広がり、橋の石の色をいっそう鮮やかに引き立てている。ほとんど毎日が快晴のスペインだけども、よく晴れた今日みたいな日にこの橋を歩けたのが嬉しい。
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