ピレネー越え(3)

 ブルゲテからエスピナルへと続く道は、樺の木立に囲まれた静かな林道だった。足元にはピンク色のツンツンしたアザミが咲いている。道沿いに生えている野草なんかは日本で見かけるのとほとんど変わらない。途中、樺の森を切り開いた牧草地で、地面に座り込んだ牛がまるで猫みたいに後ろ足で器用に顔を掻いていた。牛があんな風に顔を掻けるとは知らなかった。


 午後5時にエスピナルの町に到着した。今日は少し長く歩いたけれど、一日の巡礼を終えるにはちょうどいい時間だ。今夜の宿を探すため、まずは目についた1軒の扉を開けた。


「予約はある?」


 受付の女性にそう尋ねられ、「ない」と答えると、申し訳なさそうな表情で満室を告げられた。


 そうか、満室なら仕方ない。この村にはアルベルゲが全部で4軒あるはずだ。ところが、次もその次も、そのまた次も結果は同じだった。どこも満室。個室どころかベッドひとつ空いていない。昨日は深く考えずに入ったアルベルゲで簡単に部屋が取れたから、宿探しを甘く見ていた。


 ガイドマップによれば2キロ先の集落にアルベルゲが1軒あるけれど、そこも満室だったらスビリの町までさらに13キロ以上歩かなくちゃいけない。不安が頭をよぎった。


 僕が望みをかけた1軒は果たして満室だった。入り口にはスペイン語、英語、フランス語の3か国語で「満室」と書かれたプレートが憎々し気に掛かっている。


 あと13キロか……。この先はわずかながらアップダウンもあるし、午後9時前にスビリにたどり着くのは無理かもしれない。さすがに焦り始めた。気持ちを落ち着けるために、水道でペットボトルを満たした。


 気分的なものを別にしても、実際に疲労感もある。ここまですでに30キロ歩いているのだから当然だろう。宿はあらかじめ確保しておかなくちゃいけない。重要な教訓を得たけれど、それを悔やんでいる余裕はない。今日の行程がまだ終わっていないのだ。ウルトレイヤ。とにかく前へ進まなければ。


 人気のない山道をひたすら下っていると遠くの方から何やらメロディが聞こえる。スビリの町で流しているのだろうか? だとすると、そろそろ町が近いはずなのに、それらしき姿はまだ見えてこない。


 突然、木立の切れ目から小さな赤い屋根がいくつか見えた。スビリだ。4軒の宿しかなかったエスピナルと比べるとはるかに大きな町に見える。時計を見ると午後9時になろうとしていた。神様お願いします。あわれな巡礼にどうか部屋を与えてください。


 スビリの入り口には黒っぽいアーチ状の石橋がかかっていた。いかにも「町のゲート」といった趣がある。午後9時とはいえ空はまだ明るく、橋を渡ると、地元の若者たちが川のほとりに腰を下ろしてお喋りしている。橋の先にはちょっとした広場があって、たくさんの人たちで賑わっていた。楽器の演奏に合わせて踊っている姿も見える。山道の途中で僕が聞いたのはこの音楽だったのだ。どうやら今日は何かのお祭りらしい。ちょっと嫌な予感がしてきた。


 広場に近い順に片っ端から宿を当たるも軒並み満室。もちろん個室なんて贅沢は言わない。ベッドひとつあればいい。でも、それすら空いてない。スビリには大規模な公営アルベルゲがあり、これが頼みの綱だ。祈るようにして向かったものの、受付に誰もいない。壁に貼られた一枚の紙に目をやると、「チェックイン:午後2時から午後6時まで」。そんなの聞いてないよ。


 スビリの宿も全滅。本当にどうしよう……。


 何も考えが浮かばないまま、まずは夕飯を食べることにした。腹が減っているし、ビールが欲しい。


 スペインのディナータイムはかなり遅いと記憶していたのに、入ったレストランでは料理の提供時間はもう終わったと言われた。そんなバカな。それでも、何か食べ物はないかと食い下がるとピザなら出せるという。ピザ! 上等じゃないか! ピザを待っている間に飲んだ生ビールが美味い。これであとは部屋さえされば完璧なのに……。


 ピザを食べ終えると、やることがなくなってしまった。いや、巡礼手帳にスタンプを押してもらうんだった。レストランの入り口の真横が事務所になっていて、ここでおじさんが青色のスタンプを押してくれた。柔和そうな顔立ちのおじさんに「ホテルの部屋が空いてなかったんですが、そこの公園で寝ても問題ないですか?」と尋ねた。公園で野宿できるかどうかを本気で知りたかったわけじゃなく、ひょっとしたら宿なしの僕に同情してくれて、あわよくば何かの伝手で部屋を見つけてくれるかもしれないという下心からの質問だ。


 けれどもおじさんの返事はあっさりしたもので、


「別に問題はないさ。でも、今夜はお祭りだから深夜まで音楽が賑やかだよ」


 期待した僕が愚かなのだが、問題ないなんて言ってほしくなかった。がっくりと肩を落とす僕に、真っ当なアドバイスが追い打ちをかける。


「8月は観光シーズンだから、1週間前には宿の予約を取った方がいいな」


 僕はレストランを出て、とぼとぼと公園に向かった。


 ベンチに腰かけてリュックを降ろす。本気で夜を明かすつもりなら、リュックの底に押し込んである寝袋を取り出すべきなのだろう。でも、なかなか決心がつかない。


 20メートルくらい離れたところで3人の若者が楽しそうに何やら大声でしゃべっている。祭りの夜だもんな。


 ほどなくして、小さな子ども連れの家族が公園にやってきた。午後10時をとっくに回り、さすがに空はもう暗くなったけれど、祭日はみんな夜更かしなんだろう。


 これじゃあ、寝るのはさすがに無理だ。人通りが絶えず、周りがうるさいのは確かだけれど、そもそもそれ以前の問題だ。気持ちが落ち着かず、眠気など全く起こらない。どうせ眠れないなら少しでも先に進んだ方がましかもしれない。ウルトレイヤ、ウルトレイヤ。


 公園を出て、道端の屋台の前を通りかかると、日本でも縁日で売られていそうなおもちゃやお面が目に入る。子供が喜ぶものなんて万国共通なのかもしれない。


 祭りの喧騒を背に、町外れまで歩いてくると、静けさが急に広がり、夜の暗さが増した。


 巡礼路と並行するように東西に延びる国道135号線を黙々と歩く。1時間くらい経った頃、小さな集落が現れた。ガイドマップを開くと、こんな所にもアルベルゲがあると書かれている。深夜0時の今となってはもうどうでもよい情報だ。そのアルベルゲの横を通りすぎる時に、建物から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。温かいベッドのある部屋で、巡礼者たちが今日の出来事を語り合ったりなんかしているのだろう。自分がみじめな気分になった。


 暗闇の中に屋根付きのバス停を見つけた。ひょっとして、ここだったら眠れるかもしれない。寝袋を出す気にはならなかったけれど、リュックを枕代わりにしてベンチに寝転がってみた。


 今日は45キロ以上も歩いたんだから、身体が疲れていないはずがない。でも眠れない。目をつぶり、一日を振り返ってみる。本当に、どこがまずかったんだろう。ピレネーを登り始めた今朝の風景がずっと昔の出来事みたいに感じる。


 だめだ、やっぱり全然眠れない。


 眠れないなら起きているしかないわけで、どうせ起きているなら歩くのが合理的だ。そう考えてリュックを背負い直し、また歩き出した。結局、夜通し歩いてパンプローナを目指すことになったのは、すでに書いた通りだ。

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