ピレネー越え(2)
しばらく歩いているうちに、スペインとフランスの風景がまったく違うことにふと気が付いた。フランス側の風景はどこまでも切り開かれた草地が広がっていたけれど、スペイン側は周囲が白樺の森になっている。先ほどから羊たちのカウベルが聞こえなくなったと思っていたけれど、牧草地がないのだからそれも当たり前だったのだ。カウベルの代わりに聞こえてくるのは鳥たちの澄んだ鳴き声。姿を見せないところは鳥たちも同じだ。
もうすぐ山頂という辺りまで来ると、道が粘土質の泥に変わって歩きづらくなった。足を踏み込む時にはズルっと滑るし、足を上げる時は地面に引っ張られるようにして重たくなる。泥と糞まみれになったサンダルは綺麗に水洗いしたいところ。でも、この天気じゃ洗ってもすぐには乾かないだろう。それに、どのみち水場も見当たらない。
ぬかるんだ泥道としばらく格闘の末、とうとう山頂に到着した。標高1450メートル。ここからの眺望こそが「ナポレオンの道」を選んだ巡礼へのご褒美……のはずなのに、今日は一面真っ白で景色も何もあったものじゃない。
そして、寒い。強い風がビュービューと音を立てて吹き付けてくる。気温は18度。そりゃあ寒いわけだ。パーカーを着ていて本当によかった。周りを見ると半袖半ズボンの巡礼者の姿がちらほらと目に付く。どうしてあれで平気なんだ?
ガイドマップを取り出して今日のゴールをどこにしようかと考える。ここから次の町のロンセスバジェスまでは4キロ。この先は急坂が続くので道のりは楽じゃないだろうけど、さすがに1時間半もあれば十分だ。まだ午後1時前だから、ロンセスバジェスから7キロ離れたエスピナルの町はどうだろう? ここならプラス1時間半か2時間。うん、エスピナルはちょうど良さそうな場所にある、と僕には思える。
寒さに震えながらの短い休憩を終え、山頂からの坂道をひたすら下っていく。するとさっきまでの霧が嘘のように晴れてきて、青空が一気に広がった。周囲を見渡すと日本で見慣れたような深い緑の山がどこまでも連なっている。峠のこっち側はまったくの別世界だ。目の前の景色が僕の記憶の中にあるピレネーの風景とようやく一致した。
下り坂の途中、木製のゲートが通路を塞いでいた。ひょっとして立入禁止? 急坂を十分に下ってきたというのに、まさかあの道を引き返すことになるのか? 想像しただけでゾッとして鳥肌が立った。
幸いなことにこれは僕の勘違いで、普通に門を開けて通ればよいだけだった。このゲートは羊が放牧エリアの外へ出て行かないために設置してあって、よく見るとゲートの周囲に電流の流れる鉄線が延びている。実は、すぐあとにやってきた巡礼のおじさんがそう教えてくれたのだった。このおじさんには心から感謝したい。僕一人だったらよく分からないまま、坂道を引き返しているところだった。本当に、色んなところにトラップがあって巡礼クエストみたいなのだ。
そう言えば、アンドラを旅行した時も、山道を散策していた時に同じような牧柵ゲートを見かけたんだった。歩きながら思い出した。
山道を下り切るとふもとの小さな村の民家が目に飛び込んできた。おお、家がある! 山中にいたのはせいぜい6時間なのに、まるで長い旅を終えて文明世界に戻ってきたかのように錯覚する。ロンセスバジェスからエスピナルまでの道はほぼ平坦で、ここからなら2時間もかからないはず。のんびりと景色を楽しみながら進むとしよう。
しばらく歩いてから、ふと思い立って振り返ってみると、青空の下、さっきまでいた山の頂だけが厚い雲にすっぽりと包まれていた。そうか、あそこから歩いてきたんだ。ほんの数時間前まで、あの霧の中を上り下りし、泥と格闘していたことを思うと、なんだか不思議な気分になる。
エスピナルの手前にあるブルゲテの町に入ると景色が一変した。ずいぶんとメルヘンチックな町並がおとぎ話の舞台のような雰囲気をかもしている。目抜き通りと呼ぶには小ぢんまりとした道路の両側に、白い石壁の家がちょこんちょこんと並んでいる。どの家も屋根は朱色で、木製の鎧戸は揃えたように茶色か緑。そして2階のベランダにはピンク色の花の鉢植えが置かれている。歩いているだけで住民の人柄の良さが伝わってくるような、温かみのある町だ。
1軒のレストランの入り口に黄色く塗られた手書きの看板が立てかけられていた。タパス、レストラン、カフェ、朝食、ブランチ、昼食、夕食、テイクアウト。そして看板の一番下に「ウルトレイヤ」の文字。この言葉を見た瞬間、僕は一冊の本を思い出した。
米国の女優シャーリー・マクレーンが自身のサンティアゴ巡礼の体験を綴った『カミーノ:魂の旅路』という本がある。その中で、軽トラの荷台に乗った若者が彼女に向かって「ウルトレイヤ!」と叫ぶ場面が僕の印象に強く残っていた。ラテン語由来のこの言葉の意味は「その向こうへ」「もっと先へ」。サンティアゴまでの長い道を思って挫けそうになった巡礼者に対する励ましの言葉、あるいは巡礼者が自分を奮い立たせるために心の中で唱える言葉だ。
かつては巡礼者同士が「ウルトレイヤ」と声を掛け合っていたそうだ。でも、少なくともここまでの道のりで僕は1回も耳にしていない。
現在の巡礼者たちに共通の掛け声は「ウルトレイヤ」ではなく「ブエン・カミーノ」。スペイン語で「良い道を」という意味だ。
ちょっと面白いのは、イタリア人はこれをブエノ・カミーノと言ったり、ポルトガル人はブエン・カミーニョと発音したりする。イタリア語もポルトガル語もスペイン語の親戚だから、ついつい文法や発音が自国語に引っ張られてしまうのだろう。
ちなみに「どこから来たの?」というのも定番のフレーズ。
ブエン・カミーノと声を掛けたあと、しばらく並んで歩いたりすることがある。あるいは、追い越したり追い越されたりで同じ巡礼と何回も顔を合わせたりすることもある。こういう場合は自然と会話が生まれるのだが、最初の一言は決まって「どこから来たの?」。これは四国遍路でも同じだった。世界共通の会話の入り口というわけだ。
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