第2話―街ブラOL、陽菜のある日―

――こんな展開、誰が予想できただろう。


 取り調べ室の無機質な天井を見上げながら、陽菜の意識はふっと現実を離れた。


 それは、ほんの数時間前の出来事だった。



 2025年、春の終わり。季節は桜から新緑へと移り変わりつつあり、街はどこかうららかな空気に満ちていた。


「さて、今日も行きますか。#週末街ブラ旅、スタートっと」


 紬野陽菜、二十八歳。


 都内の中堅企業でOLをしながら、週末は“映える街ブラ動画”を撮ってSNSに投稿するのが趣味。


 夢は“街歩き系インフルエンサー”になること。


 という、ちょっと変わり種なアラサー女子である。


 フォロワー数はまだ四桁台。


 バズった経験は一度もない。


 けれど、自分の投稿を毎週楽しみにしてくれる小さなコミュニティがある。


 それが嬉しくて、今日も陽菜は、愛機のスマホと三脚、それに自慢の“コンセプトファッション”で街へ繰り出す。


 その日の目的地は、都内某所にある「カフェー鳳凰堂」。


 大正初期に建てられた和洋折衷の名建築で、外観も内装も保存状態が良く、まるで時代劇のセットに迷い込んだかのような雰囲気が楽しめると噂の名店だ。


「で、この日のために用意したのが、これ!」


 陽菜が鏡の前でくるりと一回転する。


 紅の羽織に、リボンタイ付きのベージュブラウス。


 ネイビーのプリーツスカートは、歩くたびにふわりと揺れ、クラシカルなシルエットを際立たせる。


 足元は黒のオープントゥブーツ、レースアップ風のデザインがレトロな味わいを添える。


 髪は長い黒髪を片側で結んだハーフアップにまとめ、小さな花の簪(かんざし)を差してアクセントに。


 ――そう、これぞ“現代風アレンジ・大正ロマンコーデ”。


 目的地の雰囲気に合わせて衣装を選ぶのも、街ブラ旅の醍醐味。


 しかも今回は、洋館×喫茶店×大正様式という「映え」の三連コンボ。


 動画のネタにもなるし、何よりテンションが上がる。


 愛用の手帳には、歴史背景や周辺の観光情報がびっしりとメモされている。


 さらに、カバンの中には辞書のように分厚い「2025年版 全国お一人様観光紹介完全版」。


 観光マニアでもある自作の“虎の巻”と呼ぶ一冊だ。


「……うん。今日は絶対いい動画が撮れる。よーし、頑張ろ」


 陽菜はスマホの録画ボタンを押し、カメラに笑顔を向ける。


「皆さんこんにちは、つむぎの陽菜です。今日は大正ロマン香る喫茶店、『カフェー鳳凰堂』さんにお邪魔します!」


 いつものように一人で喋りながら街を歩く。


 誰に見られても気にしない、礼儀とマナーは守る。


 それが陽菜のスタイルだ。


「この建物、なんと築百年以上。木造の柱とステンドグラスの窓、タイル貼りの玄関……昭和初期の震災も戦火も免れた奇跡の名建築らしくて。保存状態が極めて良いって噂なんですよ~」


 カメラ越しに紹介しながら、目的の店へと向かう陽菜。


 その表情は実に楽しげで、心なしか足取りも軽い。


 今思えば、あの時、すでに世界は“こちら側”とズレ始めていたのかもしれない。


 ◇


 取り調べ室の椅子に座りながら、陽菜は深くため息をついた。


 ――確かに、私はカフェー鳳凰堂に行って、大正ロマンの動画を撮るつもりだった。


 でも。


「……どうしてこうなったの……」


 呟きが、静かに天井に消えていった。


 ◇

 

 「はいっ、というわけで、到着しました!」


 陽菜は喫茶店の前に立ち、スマホのカメラに向かってにっこり微笑む。


 目の前にそびえるのは、まるで時代劇から抜け出してきたかのような木造建築。


 格子窓に重厚な扉、漆喰の白壁に瓦屋根が乗り、窓辺には小ぶりのステンドグラスが控えめに輝いている。


 古びていながらも凛とした佇まい。


 喫茶店「カフェー鳳凰堂」。


 築百年を越えるというその建物は、まさに和洋折衷の傑作だった。


「いやあ、これはやばい……テンション上がる……っ!」


 陽菜は撮影をいったん止めてスマホを仕舞う。


 玄関脇の掲示板に目をやると、手書き風のチラシが貼ってあった。


 《当店は大正初期に建てられた旧商家を改装した店舗です。元は薬種商で、洋風建築に影響を受けた大正期の意匠が特徴です。天井梁や飾り柱、アンティークの家具なども当時のまま残されています――》


 「ほうほう……なるほど、これは動画に使えるネタ……よし、メモメモ」


 陽菜はカバンからメモ帳を取り出して、チラシの内容を熱心に書き写し始める。


 目は完全に紙に夢中。


 ……だから気づかなかった。


 店の重たい木製の扉が、ほんの一瞬だけ――淡く、光ったことに。


 それはまるで、結界が一瞬ゆるんだような、そんな気配だった。


「さて、いざ、入店!」


 陽菜はウキウキしながら取っ手を引き、扉を押し開けた。


 ――カランコロン。


 控えめなベルの音が鳴ると、柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。


 挽きたての珈琲豆と、磨き込まれた木の香り。


 時間が止まったような、心地よい静寂。


「……これは、すごい」


 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、陽菜は思わず言葉を漏らした。


 壁は深い焦茶色の木材で統一され、天井には美しい梁。


 アンティークのランプが低く灯り、奥のステンドグラス窓から柔らかな光が差し込んでいる。


 時代を重ねたはずなのに、床も、家具も、まるで“さっき塗りたてたかのように”美しかった。


 まるで「新しいのに古い」――そんな逆説的な美しさを持つ空間。


 カウンターの向こうには、落ち着いた雰囲気の年配のマスターが一人、静かに立っていた。


 白シャツにベスト、蝶ネクタイ。


 動作は控えめながらも洗練されていて、そのたたずまいはまるで映画の中の人物のようだった。


「……あの、こちら、取材は……?」


 陽菜が恐る恐る尋ねると、マスターは柔らかな笑みを浮かべ、うなずいた。


「他のお客様にご迷惑にならぬようであれば、構いませんよ。どうぞ、お好きな席へ」


「ありがとうございますっ」


 陽菜は思わず小さくガッツポーズを作りながら、店内を見渡す。


 ――奥の窓際には、二人連れの若い女性が座っていた。


 共にアンティークのワンピースにボンネット風の帽子、レース手袋と網タイツ。


 どこか“本気の”大正ロマンファッションで、静かに談笑している。


「すご……自分以外にもコンセプトガチ勢がいたなんて……!」


 陽菜は嬉しくなって、反対側の席に腰を下ろした。


 メニューには珈琲、紅茶、サンドイッチ、ホットケーキ……どれも昭和を通り越して“モダン”と呼ぶにふさわしい品揃え。


「では……ブレンドコーヒーと、パンケーキをお願いします」


 マスターが丁寧に一礼し、音もなく厨房に引っ込んでいく。


 しばらくして運ばれてきたのは、金の縁がついた洋皿にふっくらと積まれたパンケーキと、銀のポットに入った香り高いコーヒー。


 陽菜は、カメラを構える前に思わず見惚れてしまった。


「……これが、令和の“映え”じゃない、“本物の美しさ”か……」


 ナイフを入れると、パンケーキはふわりと湯気を立て、バターとシロップがゆっくりと流れていく。


 一口食べた瞬間、陽菜の顔がふにゃりとほころんだ。


「……おいし……ああ、こういうのを求めてたんだよね、私」


 しばらくして、スマホの録画を停止した陽菜は、軽く伸びをしながら満足げに息をついた。


 「ふぅ……今日の街ブラ、大当たりだったなー。パンケーキも雰囲気も完璧だったし、絶対ファン増えるぞこれは」


 レトロな空間と静かな音楽が、心地よく余韻を残している。


 陽菜はスマホをバッグにしまい、手帳をそっと閉じた。


 「さてと、お会計……っと」


 カウンターへと向かい、財布を取り出す。


 新品の一万円札をすっと抜いて、マスターに手渡した。


 「ごちそうさまでしたー。これでお願いします」


 しかし――


 「……」


 マスターが不自然に沈黙した。


 手にした紙幣をじっと見つめ、目を細める。


 指で端をつまみ、光にかざし、裏表を確かめるように視線を動かした。


 「……失礼ですが、こちら……どちらの紙幣でしょうか?」


 「……は?」


 陽菜は一瞬、聞き間違いかと思った。


 「いえ、それ普通の……一万円札ですけど?」


 「……ですが、こちらの店ではご利用いただけないものでして……」


 「へ? あの、ちょっと待ってください。使えないってどういう意味ですか?偽札だってことですか?」


 マスターは慇懃に口を閉ざし、ただ静かに、紙幣を差し戻してきた。


 「えっ、いやいや、なに? 何これ……本物なんですけど」


 陽菜は焦りながらも、バッグから千円札も取り出す。


 五千円札もある。予備のクレジットカードや電子マネーのカードも出そうとして――そこでようやく、首をかしげた。


 「……え、電子マネー……ない?」


 ふとレジを見ると、ICカードリーダーも、バーコードスキャンの装置も見当たらない。


 いや、それどころか、レジスターそのものがどこにも見えなかった。


 「…………え?」


 マスターの顔は変わらない。


 落ち着いたまま、淡々と対応している。


 だが、その“淡々さ”が逆に陽菜の不安を煽った。


 「ま、待って……あの……冗談じゃないですよね?だって、これ普通に使える紙幣ですし……コンビニでも、スーパーでも、ATMでもっ!」


 「コン……ビニ……とは?」


 その単語を聞いたマスターが、眉をひそめた。


 「……はい? ……コンビニ……知らないんですか?」


 「……」


 マスターは何も言わず、ゆっくりと一礼すると、厨房の奥へと静かに姿を消した。


 ぽつんと取り残された陽菜は、目を白黒させながらカウンター前に立ち尽くしていた。


 ――なんか……ヤバい空気じゃない……?


 そう思った矢先だった。


 奥から足音。


 戸が開き、現れたのは濃紺の詰襟制服を着た年配の男性だった。


 制帽をかぶり、真面目そうな顔つき。


 「お嬢さん――少々、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 「……えっ?」


 陽菜はきょとんとしたまま答えられない。


 「たまたま通りかかったら店主に呼び止められましてね“真偽不明の紙幣を提示された”との連絡がありまして。少々、ご同行願えますか」


 「え、え、いやいや、ちょっと待ってください!? なんで警察!? 普通に会計しようとしただですけど!?」


 「恐れ入りますが、こちらの用意した乗り物でご移動いただきます。詳しいことは、署でお話を――」


 制服の男は淡々と話す。


 マスターと同じく、決して声を荒らげたり、強制的な態度はとらない。


 だが、その静かな迫力は拒絶を許さない。


 「いや、ちょっ……ほんとに!? わたし何も悪いことしてないですよね!? 払う意思もあるし、お金だってちゃんと……!」


 「……ご協力、感謝します」


 半ば困惑しながら腕を取られ、店の外へと連れ出される陽菜。


 視界には、見覚えのない古びた街並みと、人力車のような車両。


 (あれ?)

 

 (なんか、ほんとにおかしくない……?)

 

 (なんで“今の”お金が使えないの?)

 

 (あの人たち、レジもないし、電子マネーも通じないし……。)


 けれど、“まさか”という思いがまだ強くて、陽菜は「タイムスリップした」とは、この時点では考えていなかった。


 このときの彼女はまだ、“世界のほうが間違っている”と思っていた。



 (そうして、今、私は取り調べ室にいるわけです。)


 陽菜は、再び現実に意識を戻し、目の前の無機質な蛍光灯を見上げた。


「……どうして……こんなことに」


 呟いた声に、誰も答える者はいなかった。

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