第3話 イベントの夜を過ごして
正樹は、新宿の映画館に「アカデミー賞」受賞で人気を博した、異色のボクシング映画を観に来ていた。前評判の高いこの作品は、前売り券を購入してから今日までの期間、さらに多くの評や話題を積み重ね、特にも、実生活においてもこの作品でアメリカンドリームをつかんだ、この主人公についての話題は、この作品をさらに興味深いものにしていた。
館内はすでにたくさんの人でごったかえしている。正樹は座席を見上げて(Hの13)の位置を確認した。階段を数段上って座席を確認すると、座席までの間にすで多くの方がいる。みなさんに言葉をかけながら自席まで進んでいった。
座席にたどり着いてほっとして、前の座席を見ると、両拳を顔面のガードにして頭を前後左右にリズミカルに動かす。そして、隣の友人にロッキーはこんな風にガードしてチャンピオンのパンチを無力化するはずだぜ、正樹の前列の(Gの12)の席の男は、(Gの13)に座る友人にそのテクニックを披露していた。さらに前の座席の頭の上にくり出されるパンチは危なくてしょうがない。周りのみんなが注目するとするほど調子に乗って動きが大きくなる。本当に危なくてしょうがない。すると(G11)の席の女の子から苦情が出た。
「危ないからやめて下さい。」
男は我に返って、ばつが悪そうな顔で。
「あっ、どうもすみません。思わず興奮して調子にのってしまいました」
男はおとなしくなって、座席に埋もれて小さくなった。注意した女の子は何事もなっかたように前を見続けている。
いよいよ会場が暗くなった。暗い会場を座席をかき分けながらも申し訳なさそうにして、正樹の隣に座った女がいた。この隣の女はかけていた眼鏡を外してスクリーンを見つめている。心地よい音楽が鳴り響いた。女の髪の長さを意識すると、綾子を感じて一瞬、胸がキュンとした。そのうち映画に入り込み、隣にいる娘を忘れた・・・・・・。
貧しさの中で奮闘するロッキー、心の動きに呼応するかのごとく、紆余曲折を経た人生の色が画面全体に茶系の色と化して繁栄される。それを支える仲間と恋人、そして貧しさを共有する街の人々。ロッキーはリングの上でチャンピオンから何度もパンチを受けた。そして、もう終わりかと思える時にどんでん返しが繰り広げられた。
14ラウンドのダウンシーンで、急に隣の彼女の腕が正樹の腕にからまり、彼女はのしかかって顔を伏せた。そして、いよいよクライマックスに近づく、最後のゴング、そして判定、僅差でチャンピオンの勝利。その影で、人生の本当の意味に触れ、恋人の名前を終了の雑踏の中で叫ぶロッキー。戦いを乗り越えた傷だらけの顔が大きく映し出される。隣の彼女は、顔面の前で拳を強く握りしめていた。エンディングが流れる中で隣の彼女は、膝の上の荷物にうっぷして流れ出る涙を拭いていた。
正樹は彼女の背中に、やさしく二度、三度と手を置くと席を立った。
暗がりを通路に沿って歩み、何人かの観客とともに開いたエレベーターに乗り込んだ、振り向くとエレベーターに乗りきれずにいる客の中に隣のあの女が居た。その姿を見た正樹は思わず「やっぱりその黒子は綾子」と叫んでいた。
エレベーターを降りて少し待ったが綾子は降りてこない。正樹は確かに綾子だったと、もう一度、目頭の中にあるイメージを確認しようとした。なかなか思うように思い出せない。するとエレベーターの隣の階段から綾子がひょっこり下りてきた。何食わぬ顔で正樹の隣に立った。
「あーびっくりしちゃった、正樹が隣に座って居るんだもの・・・・でも、よかった・・ほんとに正樹で」
その様子をあきれ顔で眺めていた正樹は、綾子の期待とは裏腹に投げやりな態度で。
「お前いったい何やってのよ・・・・こんなところで」
「わたしさぁー、実はさぁ、今バイト中なのよ・・・・」
「何でバイト中の奴が映画観てんだよ・・・・」
「だって、上の人から綾子は三時間くらい、映画でも観て時間をつぶしてきなさいって言われてチケットをくれたのよ、だからこうして観に来ているの」
「他の人たちは何やっているんだよ」
「その人達のところに今から行くの、正樹ついてきてよ・・・・すぐそこだから」
そう言うと綾子は正樹の腕をとって、ネオンのぼやけた明かりが宵の口の街に灯り始めた二人は魅惑の街に踏み出した。行き先はコマ劇場の裏側の方にある古びたビルだった。
「どこへ行くんだよ・・・・」
「だからみんなが居る会場よ・・・・」
ぐいっと引っ張られ、連れて行かれたところは、ビルの入り口に小さく「○○繊維展示会場及び商談会会場」と案内が出されおり、人の出入りも無かった。
綾子は、正樹に外で待つように言うと会場の中に消えた。ドアが小さく開き綾子が手招きした。正樹は隙間から中にはいると、会場内は意外とごった返しており、新製品の展示してあるブースで何人もの人々が商談を行っていた。そのブースには、着飾り化粧の濃い若い大学生のアルバイトコンパニオンが、商品のアピールや人寄せに愛嬌を振りまいていた。よく見ると、どうも学生達も声をかけられ、からかわれることを楽しんでいるようにも見える。正樹は不思議なものをみるようで、何が行われているのかすぐには理解できなかった。
「おい綾子、お友達は?」
綾子は、先日おにぎり「五十鈴」であった友達を探して手を振ると、向こうも綾子に気づいた。友達は近くにいる黒い背広の男に綾子を指さして何か言っている。背広の男はじっと綾子をみていたが顔の前でNOの合図をするとその後は顔を背けた、友達のT子はその後オーデコロンのにおいをふりまいて正樹達のところにやってくると、綾子と正樹をみて早口で話した。
「今日はもういいから、帰って。後で連絡するよ・・・・」
「分かった。じゃぁね」
綾子と正樹は、もうしばらくその不思議な会場を見つめていた、何カ所かを見つめ続けていると、商談の後に女子大生に言い寄っているサラリーマンもいる。また、商談と交換に学生を獲得しようとする奴も見える。正樹は綾子の腕をひったくるとその会場を急いで出た。
「綾子、この後、女の子達はどうなるって聞かされているの?」
「このあとは、それぞれで、みんなバイト代をいただいて帰ることになるんじゃない。分かんないよ、だってわたしいつも待機組だからさ、その後までいたことなんてないから・・・・」
二人はビルを出ると、ビルの入り口の見える少し離れた居酒屋に入った。窓際に座ると、ビルの入り口を見つめた。店の奥にビールを注文すると正樹は、綾子に向き直り静かに話し出した。
「綾子、俺は君がどんなバイトをしていようが、別に関係ないけど・・・・君は、自分がどんなバイトをしているのか分かってやっているのか」
「そりゃ、分かっているわよ・・・・会社の商品を紹介したり売ったりするお手伝いよ・・・・」
「その通りだよ・・・・基本的には・・・・その他にも売りものがあったように思うんだけどなぁ」「何よ・・・・」
「何でお前は、帰っていいって言われるのよ」
「・・・・・・・・」綾子は目を伏せてちょっと考えるふりをしたように見えた。そして小さな声で話し出した。
「わたしが、他の子と比べてブスだから・・・・?」
正樹は綾子がこんなに率直に言うとは思わなかった。だかこそ、正樹は、優しい目でじっと綾子の顔を、そして次の言葉をじっと見つめて待った。
「そうよ・・・・どうせわたしは、どうせわたしは、売りものにならないわよ・・・・」
綾子は投げやりに言葉を吐いた。正樹は綾子の厳しい目と、さらに言葉にした強さに胸が痛くなった。
「綾子、あの友達の側にいた黒服の男は誰だよ・・」
「あの人が私たちのサークルのリーダーよ、下村っていって、H大の三年生らしい・・・・」
正樹はグラスに注いだビールをごくりと音をたてて飲みこむと。
「あのさぁー、いつもこんなバイトの時は、みんなどこに集合して始めるわけ・・・・」
綾子の話だと、はじめに会場になるビルに集まって、展示会などの準備をして、その後に着替えて、主催する会社の人と製品などの説明や打ち合わせをするらしい。その後に会社の人とリーダーが打ち合わせをして、今日の会場コンパニオンになる人と待機組になる人が発表されるらしい・・・・まあ綾子さんはいつも待機組に入ってしまうようで、このサークルに入ってから一度もコンパニオンガールをしたことが無くて、もうやめようかって思っているところだったらしい。
正樹は、また心が痛くなってきた。コップのビールをまた飲みこむと、ビルの入り口から、着替えた学生コンパニオンと会場にいた何人かのサラリーマンが二次会に行くのか、ビルの前でいくつかのグループに分かれてそれぞれちりぢりに移動し始めた。あるカップルは腕を組み肩を抱き街に消えていった。
そして、最後に下村とT子が主催者とおぼしき男と一緒に出てきた。ビルの前で下村が男から封筒を受け取りジャケットの内ポケットにしまうと、深々と頭を下げた。主催者は二言三言話をすると、くるりと背を向けて、その場から離れた。下村はしばらく頭を下げていたが、T子と腕を組んで、どこか人の波に飲まれて消えていった。
「綾子、今見たろう・・・・こんなバイトなんだか、サークルなんだか、分かんないけどもうやめた方がいいいよ」
ビールのグラスに口を付けて一回・二回と祈るように回数を刻むとビールを飲みこんだ。綾子はブライトピンクの唇を仕切り直すがごとく舐めると、その色が一層鮮やかになった。
「ううん・・・・もうやめる。わたしには合わないよね・・・・こんなサークル」
彼女は泣いているんだろうか。眼鏡の下の頬を伝わって涙の鈍い光の筋が流れ落ちた。涙は小鼻のところで一瞬止まって黒子のそばで勢いを増して、赤い唇にふりかかり唇を鮮やかに輝かして吸い込まれた。
「早々、はやいとこやめなよ・・・・。いいことないよ、だってこれって犯罪じゃないか・・・・」
二人は、居酒屋でビールを数本飲むと、そのサークルが犯罪集団であったことを確信し、下村が女子学生を手なずけていく段階を明らかにしながら酒を飲んだ。店を出た時はだいぶ酔って、二人の足取りはおぼつかなかった。。
店を出た二人はぶらぶら歩きながらなおも話した。新宿駅に向かわず新大久保に向かい、いかがわしいホテル街が立ち並ぶ中を、高田馬場方面に向かっているというだけで、特に目的も無く歩んだ。綾子が人を気にせずに話せる場所が欲しかっただけだった。
下村はいくつかの大学をメインに、五・六人の女子学生に対して、楽しそうなイベントに誘い、それを皮切りに他のイベントやコンサートにも誘い出し、徐々にコンパニオンのイベントに導き、多額のバイト代と言いながらお小遣いをあたえて離れられなくする。一方、特定の会社のおじさんのスケベ心とマッチングさせて会社の展示などを助ける名目で、表の形式は会社からの依頼でのコンパニオンとしてお手伝いをする。そして、夜は居酒屋やホテルで接待のアルバイトする。
学生側にとっては、お小遣いが稼げて、あわよくば卒業後の就職の渡りも付けてしまうという一石何丁にもなりそうなものだったが、一歩間違えると危険なものだった。
サラリーマンの方にしてみれば、若い女子学生を得ることのできるチャンスでもあったと言うことだから、世話した下村にとっても稼げる甘い密のようなものだったに違いない。
しかし、正樹が、先ほどのビルの入り口で繰り広げられた、エンディングを考え、そこから推測するに、下村一人じゃ女子大生をコントロールするのは容易にできるものではない。従って綾子ちゃんの友達のT子とかいう女が重要な役割を果たしていることにが分かった。
二人はさらに歩きながら話した。新大久保のいかがわしいホテル街の薄明かりが無意味に灯り、心細く藪で光る蛍のように寂しげに見える。正樹が思いめぐらしていることを素直に話すと、あふれ出る気持ちに綾子はまた涙した。悔しくてなのか、後悔してなのか、自らへの怒りなのか、止めどなく押し寄せる波のような心の動きに彼女は涙を止められずにいた。 見かねた正樹が「どこかお店に入って休もうか・・・・」と誘った。声をかけられて綾子はすぐ近くのホテルに足を踏み入れた。扉を開けて中にはいると小さな窓の受付があった。中から、素っ気ない声が応えてきた。
「今からだと201の部屋が空いています」
「休憩で四千円です。泊まりになると六千円になります」
正樹が四千円払うと、綾子が鍵をもって部屋に飛び込んだ。全体が薄暗い照明で、部屋の真ん中を大きなベッドが占領していた。そしてその横に小さなソファーが申し訳なさそうに置いてあった。綾子はベッドに倒れ込むと大声を出して泣き出した。正樹は綾子を見守るようにベットの脇に腰掛けた。
綾子の声はやがてしゃくり上げるような息遣いに変わって、その声が小さくなって綾子はベッドに起き上がった。
「綾子、落ち着いたかい・・・・」
ぬれた顔にハンカチを押し当てて。
「正樹ありがとう。こんなわたしにつき合ってくれて・・・・」
「わたし、ブスでよかった・・・・」
「そんなことないよ、少なくても俺は、綾子をブスだとは思っていないから・・・・」
「ありがとう・・・・わたしブスだから助かったのかもしれないよね・・・・」
「ほら・・・・」そう言って正樹の手は綾子の顔に優しく触れ、綾子との距離を縮めた。綾子が動きを止め静かになった。正樹の手が綾子の分厚い眼鏡を優しく外した。 「綾子は、きれいだよ」
正樹は綾子のしぐさを見る中で、その時折、想像をふくらませる眼鏡なしの素の顔に自信と期待を持っていた。
「やっぱり、綾子はきれいだよ」
と言うと同時に、今度は綾子が鼻の下の黒子をとった。正樹はさらに見直して。
「今夜あのビルの会場にいた女の子の誰よりもきれいだよ・・」綾子は流れ出る涙を吹き飛ばしながら、正樹に抱きついた。正樹と綾子はどちらからともなくお互いの唇を求めた。綾子のブライトピンクの唇は暖かくて、そして柔らかだった。
しばらく抱き合ったままの二人がおもむろに顔を上げたのは、隣の部屋から聞こえるなまめかしい声が聞こえてきたからだ。
「あーー 、 いっ・・・・」などの激しい絡み合いの声だった。
「ちょっと激しいんじゃない」
二人は、なぜかそんな気分じゃなかった。そして、二人はそんな声に押し出されるようにホテルを出るた。深夜二時を回っていた。しかし、明治通りは、深夜でも多くの車やタクシーが行き来しており、昼間とさほどかわりがない状況だった。綾子のお腹の虫がキューって鳴いて、思わず「おなか空いたね・・・・」って言ってしまった、通りの向こうに目を向けると「赤ちょーちんに中華の暖簾」が揺れている店が見えた。二人の足はその店に向かって急いだ。路上には、駐車しているタクシーの他に何台かの車がいる。そして店の中には数人の客がいた。
「いらっしゃいー・・・・」のかけ声と共に店の暖簾をくぐった。「ラーメン二つ」と受け言葉のように返した、しばらくすると並んで座ったテーブルに湯気の上がるラーメンがきた。綾子は眼鏡を取り、二人は、はふはふいいながらラーメンをすすった。もう食べ終わる頃に店の店員がやってきて。
「間違ったらごめんなさいね。もしかしたら、あなたは、最近飲料水のCMに出ている○○さんじゃないですか」
綾子は顔の前で手を振って「違いますよ・・・・違います・・・・」って返事したけれど、店員さんはなかなか納得しないようで「誰にも言いませんから・・・・」と念を押す始末であった。その他のお客さんの反応もあって、お腹が満たされた二人は、急いでタクシーに乗った。
正樹のアパートに着いて、綾子と正樹は二人ならんでベットに潜り込んだ。小さな豆電球の下で、綾子の顔が砂漠の夕暮れ時のような特別の時間を刻んでいく。
「わたし、今回のことで一番ショックなのは、T子さんが、下村の計画でグルだったことよ。しかも、女子学生をコントロールする結構重要なポジションを担っていたということよ。信頼していたわたしとしては、これから会うとき、いったいどんな顔で会おうか、とても違和感があって普通の顔ではいられないわ」
「綾子、お前さぁ、T子さんとどれくらいの付き合いなの?」
「うーん、三ヶ月くらいの付き合いかな。・・・・それからねー、コンパニオンから外れて待機組になったときにはねー、今回割り当てが少なかったからだとか、今回の業者は、かちっとしたトラッドを好きな人が多いとか・・・・なんて言われたわよ」
それでも悲しい顔してると。
「・・・・綾子さんはとても個性的でわたしは好きなんだけど、今回は好まれなかったようね、次は大丈夫よ」
「・・・・やっぱり今ふりかえると、ブスのわたしをどうにか誤魔化して、納得させるか考えたんでしょうね・・・・」
「今振り返ると、わたしって惨めだよね」
そう言うと綾子はベットの中で正樹に向かってパンチをくり出した。
「チキショウ」「わたし内気で極端な人見知りなの、今までどれほど苦しんできたか・・・・」 って小さな声が聞こえる。そんな、もがき、苦しみ、自分がいやになる綾子がかわいそうで正樹はただ、抱きしめるしかなかった。その晩、綾子は正樹の腕の中で声を潜めて泣いた。
次の日、昼頃までうだうだ過ごして綾子は帰っていった。綾子はG女子大学に通う二年生で、ほんの目と鼻の先の西武線の下落合に住んでいることが分かった。そしてもうひとつ、その日から綾子は彼女のような存在になって、正樹の部屋に頻繁に出入りするようになった。
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