第2話 爪あと

「正樹さーん・・電話ですよ・・正樹さん」アパート全体が揺れるような声で目が覚めた。はじかれるようにして起き上がると、条件反射のごとく階段を駆け下りて受話器をつかんでいた。

「もしもし・・・・」

「おい、正樹か・・おい、正樹・・」

「ううん・・山田か・・」

「お前、昨夜ちゃんと帰れたか?」

「うっおっ・・帰れたよ・・・・」

昨夜の記憶がない。飲み始めたことは思い出せるがその後は真っ白だ・・・・。

「お前、あの女の子はどうした?」

「女、女・・ううん、女・・・・」

「お前、わからないのかよ・・お前が連れて帰った女だよ・・」

正樹の頭は急速に回転し始めた。ベットに横たわった女を思い出した。

「ぬー・・おっ・・まっまいったなぁ」

正樹は急いで電話を切ると、二階に駆け上がった。部屋の中を見回しても、女の姿もそれらしい影も何もない。いったいどうしたんだ‥‥冷蔵庫の上にグラスがあってその下にメモ書きが見えた。


『正樹さんへ・・・・見ず知らずの私をお世話いただきましてありがとうございます。あなたの本棚の本から、あなたがC大学の学生で、正樹君だということが分かりました。冷蔵庫からオレンジジュースをいただきました。私は綾子と言います。本当にありがとうございます。いつか必ず、またお会いできると思っております。本当にありがとうございます。』


正樹は昨日の出来事がすべて夢だったのではないかと思いながら、オレンジジュースをごくりと飲みこむと、天井をむいて、綾子ってどんな顔をしていたっけか、漠然とは思い出すが、顔の細かなつくりやしぐさなど、記憶のフィルムを巻き戻してはいるが、結局、想像の中でうやむやになり、またうとうととして深い睡眠に入った。

 アパートの誰かが帰ってきた、がたごと玄関がうるさい。薄目を開くと、テーブルに置いたメモ書き見え、不可解だった昨夜をまた思いださせる。

 「綾子か」眼鏡をかけていたな・・長い髪で長いスカートをはいていたなぁ・・・・空腹を感じて正樹は、夕食と銭湯をまわることにした。

 いつもの番台には、ボンドガールのような美しい風呂屋の奥さんが座っている。思わず気になって後ろを向いてタオルで大事なところを隠してしまう。風呂場に移動しようとすると、ボンドガールが「お客さん・・客さん」と声をかけてきた。おもわず顔を真っ赤にして大事なところを隠して番台に向かった。するとボンドガールが含み笑いを作って。

「痛くないですか‥背中が傷だらけですよ・・」

 はじめ何を言われているか分からず、理解に困ったが、背中に小さな傷がいっぱいあると言うことらしくて、背中を鏡に写してみた。筋になったかさぶたが無数に見えた。さらにボンドガールは続けて言った。

「うふふ・・・・お客さんとこって・・激しいんですね・・」

と言って、笑いをこらえていた。

「いえ・・いえ・・・・」

 返答に詰まりながら、鏡をよく見ると無数のひっかき傷は筋をつくっていて、かさぶたが線となって背中をかきむしったようについている。

「まあー・・・・とりあえず、ありがとうございます。今気がつきました」

 腕をみると、上腕二頭筋の裏側にも爪を立てた傷がついていた。

「綾子だ」

 湯煙の上がる所を通り過ぎて、掛け湯をして湯船にそろりとはいると、背中がひりひりして、ちくちくと痛みが断続的にやってきた。

腫れ物に触るように慎重に体を洗うと、急いで風呂から出て近くの定食屋へ向かった。

 綾子の顔を思い出しながら目玉焼きがのったハンバーグを食べた。何も思い出せないが、ハンバーグをかじりついたところで、綾子って女だよな・・一つ疑問が顔を出した、もしかしたら俺のベッドで二人で寝たんだよな・・。この俺が何もしないわけがない・・それだけは自信がある。

 でも、昨夜はあれほど酔っていたんだ。ん・・・・(俺、綾子に指一本も触れてもいないはずだ・よ・な・・・・そ・う・だ、俺は爪の先も触れてないよなぁー)綾子の姿が思い出せれば、何かしら肝心なことを思い出せそうな気がしてきた。急いでアパートに帰ると山田に電話した。

「おい、昨夜の女はどんな顔してた?」

「お前、何言ってるのよ。お前がトイレから連れてきたんじゃないか」

「何トイレからあの女を連れてきたってか」

「そうだよ・・お前が連れて帰ったんだろう」

「連れて帰ったよ・・でも朝起きたらいないのよ・・・・」

「逃げられたのか・・」

「おい、どうでもいいけど、彼女どんな顔してた」

「わからんよ・・顔見てないもん、だってお前が連れてきたときは長い髪が顔にへばりついていて、あと、テーブルに突っ伏して寝てたみたいだしな・・・・・・おーおー、一つ思い出したぜ、長いスカートをはいていたぜ、それに分厚いレンズの眼鏡かけてたな・・・・そうそう、実るが変なことを言っていたぜ、『ドロシーだー』って、何のことだか俺には分からないけどな」「ドロシーって『オズの魔法使い』に出てくる女の子じゃなかったっけ・・」

「何じゃそれ・・俺にはオズだか、カズだか、マゾだか、じぇんじぇんわかりません。そんであの女の子はどうしたんだ・・・・?」

「朝目を覚ましたら、いなかったのさ・・・・」

「かえって、いなくなってよかったじゃん、めんどうなくて・・」

「そりゃそうだけど、なんだか気持ちが悪いって言うか、すっきりしないんだよ」

「なあに、死んだわけでも、けがしたわけでも、盗まれたわけでもなく、まあたいしたことじゃないし・・・・はやく忘れてしまうことだよ、それより明日のドイツ語の授業に出てこいよ」


 夕方、正樹は新宿の南口に降り立つと、今日、初めてのご飯粒を腹に収めようと、おにぎり屋の「五十鈴」をめざしていた。巨大な楕円形の細長いカウンターにはたくさんのおにぎりファンが座っていた。。

 正樹は、カウンターに細かな字で示されたメニューを眺めると、目の前に立つ白い割烹着のおばあちゃんに梅干しと鮭と味噌大根・そして味噌汁をお願いした。

 注文を終えるとふうっとため息をついて、何気なく視線をカウンターの向こう側に向けると、衝撃が走った。こちらを指さしている髪の長い厚眼鏡のロングスカートの女がいる。鼻の下の黒子は、まさしく綾子だ。

 正樹も思わず叫んで指さした。奴は自席を立つと、指さしながら正樹にどんどん近づいてくる。やがては正樹の鼻さきに人差し指を突き刺した。

「正樹君、あなた正樹君だよね・・・・」

 彼女はそう言いながら、正樹の両手を包み込んだ。

「一昨日はありがとう。なんてお礼を言えばいいのか、黙っていなくなってごめんね」

「いやー、こちらこそ・・・・はじめまし・・いや・・二度目まして」正樹は自分で言っておかしくて恥ずかしかった。(おれ、なにあせってんだろう)

 特に美しいわけでもなく、酔っぱらって下呂はいてた、厚眼鏡の髪の長い女、印象的には決して良い方ではない。

 ただ、あの夜の数時間を飛んだ意識の中で、共にたぶん同じベッドで過ごしただけなのだ。そいて、彼女の残したメモに「いつか必ず、またお会いできると思っております・・・・綾子」とあった。あのときの過大な希望を抱かせる『いつか・・・・』ってこんな場面なの、いやもっと、もっとロマンチックな場面じゃなかったの?


 正樹は綾子の分厚い眼鏡の中の瞳を見つめながら、誰にとも、何にともなく訴えていた。

 そして綾子が隣に座った。一緒に来ていた友達に手を挙げると相手はいなくなった。そして、だされた茶をすすりながら、あの日の夜のことを語り始めた。

「あの晩いつの間にか、気分が悪くなったと思ったら、何にも分からなくなって、吐きたくなってトイレに行ったところまではなんとか・・・・でそこで記憶がなくなったのよ。そして気がついたのは正樹の部屋のベッドの上よ」

 綾子の話を聞いた正樹は、(綾子が、ただ気分が悪くなって、ただ寝て、目覚めたら俺のベッドの上だった)だけじゃ綾子はそれだけかもしれないが、正樹にとっちゃそんなことで済むことではなかったということを、なんとか綾子に伝えたかった、

「あの店で君は、なぜ君たちのグループに置いていかれたの」

「わたしも、そこがわかんないのよ・・・・わたしも仲間において行かれるなんてショックよ。ただ、後で私が考えるに、言えることは、あのグループはあの日初めて会った人たちだったてこと、だから誰がいて誰がいなくなったのか分からなかったのかもしれないってことよ」

「それって、いったいどんなグループだったの?」

「いくつかの大学にまたがっているサークルみたいなもんよ」

「そのサークルって、何やってんのよ」

「そうね、歌、歌ったり・旅行に行ったり・演劇や映画を見に行ったり・イベントに参加したり、それからハイキング行ったり・アルバイトしたりって、いろいろなことを楽しむサークルよ」

「それであの夜は、何の飲み会かいだったの?」

「あの日はね、イベント参加の打ち上げだったかな」

「あまり聞きたくないけど、リーダーっているの?」

「私はよく分からないわ。私にはさっきまでいっしょにいた、あのお世話係のT子さんが連絡くれるのよ」

「へぇー、馬鹿にするわけじゃないけど、何だか、おめでたいサークルですね」

 綾子は、次に何をやるのか楽しみだし、ちょっとお金も入ってくるときもあるし、と小さな声で話した。

 正樹のおにぎりが運ばれてきた。正樹はおにぎりを目の前にして、また話し出そうそした。

遮るように綾子が皿を指さした。

「どうぞ食べてください」

「あなたは、注文したんですか」

「いえ」

「どうぞ注文してください」

 すると綾子はメニューを見ていくつか注文した。正樹はそのタイミングで話し出した。

「イベントってどんなことするの?」

「そう、あの日は確か、大手インスタント食品メーカーのPRだったんじゃないかなぁ、会場作りの手伝いとか、私たちの中から何人かが選ばれて、商品の紹介とかしていましたね」

 綾子はそこまで話すと、正樹のおにぎりを「一つちょうだいします」と言うがはやいか鮭を手に取ると、少し怒ったみたいな顔してほおばった。おにぎりを口にためこみながら・・・・。

「わたしは、会場作りが済んだ後は、イベントが終わるまで待機だったんですよ。その後待機グループの数人で打ち上げをしましたね・・・・わたしいつもそうなんですよ・・・・さっきもあの娘(こ)に愚痴っていたんですよ」

 正樹は、なんだかかわいそうになって、もう何も言うことがなくなった。一応どこの学生で、どこに住んでいるのか・・・・と基本的なことを聞いたけど、みんななんかはぐらかされた。でも正樹はその言い方を不快だとは思わなかった。

 二人食べ終わって、会計をしようとすると、綾子が「この間のお礼ね・・・・私が払うわよ」と言ってくれた。それから新宿駅に向かうと綾子も付いてくる、山手線も同じ方向だ、正樹はなんだか変な気持ちになりかけたが、正樹の降りる予定の一つ手前の高田馬場で彼女は降りた。

 降り際に手を振って「またねぇー」って言っていた。

 次の駅の目白で降りた正樹は、綾子にからかわれているんじゃないかと言う気持ちになった。正樹は山田に言われたように「忘れること」を強く思い起こしていた。



 ※ ボンドガール=映画007に主人公の相手役として出演するスタイル抜群の美女


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