ノスタルジック ナイト  (陰見)

見返お吉

第1話 始まりの夜

煙草の白い煙が汚れた空間を漂う。居酒屋の空間は、まともに会話ができないくらい喧噪と人いきれでごった返している。周りから頭一つ出して、周囲を睨睨(へいげん)するような目でなめた正樹は心の中で叫んだ。

(そんでもって、今夜の俺のふところはちょっとだけ潤っているわけよ・・)

 このささやきは、すぐに、盛大に、つばきを飛ばしてがなり立てる声に変わった。

 正樹は、水割りの氷を含むと、口元をごくりとふるわせると喉に流し込んだ。そして、グラスを勢いよくテーブルに戻した。同時に跳ね返った水割りの水滴が山田君と実ちゃんの頬に飛んだ。

「正樹、いくら今日バイト代が入ったからって、飲みすぎじゃないか・・」

 正樹は山田君と実ちゃんから文句を言われても、正樹の勢いにひるむ気配はない。

 正樹は、おぼつかない足取りでトイレに向かう、ご機嫌で、行き交う人にも愛嬌を振りまき陽気にすれ違う。

 トイレにたどり着くと、ふらつく足取りで、ドアの内側に身を任せるようにして、内側に吸い込まれた。中にはいると背中にドアに押し当てるようにして閉めた・・耳がキーンと鳴って、若干の静けさが広がった。

男女に分かれた奥から「ゴー」とトイレの水の流す音がして、その方を見ると女性用のトイレのドアが開いていて、朽ち葉色のTシャツを着た長い黒髪女が、顔の見えないの女の幽霊のように下を向いてうなだれている。・・・・またも「ゴー」っと音がする。

「おい、おい、大丈夫か・・」

 正樹は、ふらふらと壁を支えにしながら女の方に向かった。チャコールグレーのロングスカートをはいた女は、便器を覆うように腰掛けていて、酔いつぶれて眠っているように見える。正樹は女の頭をこづいたが、酔っぱらっていて、なでるはずが軽くたたいたようになってしまった。

 女は起こされて機嫌が悪いのか、分からない言葉で低く唸った。正樹はさらに声をかけながら顔を上げさせた。すると女は迷惑そうに首を振りながら、正樹の手を振り払い逃れようとした、女は動くとますます乱れ、便座から崩れ落ちそうになった。

 とっさに正樹は女のわきの下に腕をまわすと、抱きかかえるようにして起こした。女は正樹に体を預け、抱き合うようにしながら起き上がった。

 抱きしめる状態になると、女は指先に力を入れ爪を立てた。正樹は背中に鋭利で細かな刃物で小さく切られているような錯覚に陥った。痛みは腕や肩まで達し、半袖のTシャツの上からも感じ、思わず押し退けてしまった。

 顔を見ると女は厚いレンズの眼鏡をかけていた。口元によだれがからみついていた、正樹は思わずトイレットぺーパーをちぎると艶の失せたピンクの口元を拭いてやった。女は正樹にされるままの状態になり、唇を半開きにして正樹を悩ましく見つめた。だが、手を離すとそのまま便器に座り込んでしまった。

 正樹は、その個室から女を連れ出すと、音楽と落ち着く先を失った言葉が飛び交う居酒屋の席に戻った。彼女の耳元で。

「あなたの席はどこですか?」

声を出した後、女の反応を見ようと顔みるとその場に今にも座り込みそうな状況になり、とりあえず正樹のいるテーブルに連れてくることにした。彼女を見た山田が

「何じゃ・・これは・・どこから見つけてきたんねん」

次に実君が

「これはまたどこからこんな色っぽい拾い物を見つけてきたんねん」

テーブルに顔を伏せって動けなくなった彼女は、まったくのお荷物で・・・・正樹は店の人を呼んで、経緯や詳細を話して、一緒に飲んでいたグループかを聞いた。そして彼女をお返ししようと考えたのだ。

「トイレで一緒だったんですか・・・・」

と、店員はなんか変な眼差しで正樹を見つめてきた。そしてまじめな声で。(あなたたちは、くさい仲ですね・・・・)と冗談を言って、そして、店員が先に帰った彼女の仲間が置いていった彼女のバッグをもってきた。そして付け加えた。(どうも二人の間は特別そうなんで・・・・どうか彼女をよろしくお願いしますよ・・)どうも正樹の思い通りにいかない。

(この女性は、本来この店でつぶれてしまったのですから、最終的にはお店の方でどうにかするべきじゃないですか・・)という思いもあるが

(可哀想だ、友達から見放されて、一人臭いトイレで酔いで遠のく意識の中で、一人ぼっちで流れる水の音を聞いていたなんて・・)誰かが支えなければこの人はダメになるんじゃないか・・・・そうだこの人を助けなければ・・・・。

 女の対応に、思わせぶりのため息をつきながらも。山田と実の顔を見る。もちろんかかわりを拒否するような雰囲気を漂わせている。

「わかったよ、僕が連れて帰るよ・・・・」

「そうだよ・・正樹しかいないでしょ」

 実君が

「・・山田・・そろそろ帰らないか、電車なくなるし・・・・」

「うん、そうだな帰ろうか・・」

「おいおいそんな薄情な・・・・せめて店の外まで付き合えよ・・・・」

「正樹、彼女はお前を待っていたのかもよ・・・・それに、最近トイレには神様が出るらしいといわれているしな・・・・まあ、ありがたく思えよ・・・・お前のアパートが一番近いんだから‥これが世の摂理っちゅうもんだ、許せ・・」

 山田君がテーブルにうっぷしている彼女の後姿を見て。

「なんか可愛っぽいし、・・・・いいんじゃない・・」

 心にもない、無理なことを言って二人はそそくさと店を出ていった。残された正樹は、女の眼鏡を外した。まっすぐに描かれた眉毛と光る長いまつ毛が正樹の心をキュンとしぼり上げた。外した眼鏡を女のバッグに放り込むと、バックを持って、体を抱きかかえるとふらふらしながらも店のドアを開けた。店員たちから、かたちばかりの感謝をされて店を出た。会計は山田たちが悪いと思ったのか、済ませてくれていた。それで思わず複雑な声が出た。

「ちきしょう・・・・」


 外に出ると夜の涼しい風が二人を包んでいく。女は体のどこにも力が入らずクラゲ状態で、砂のはいったずた袋を支えているようで、腰のない物体は、本物よりも数倍の重さを感じる。

 二人を包む風に飲まれて、正樹は抱きしめる女を支える腕は、特別な夜の二人が抱き合うように愛らしくそして優しさを増していった。そんな思いもどこかにふうっと持ちながらも、正樹は女の体を全力で支え、車通りに目を向けた。

 行き交うサラリーマンから冷やかしの声がかかる。

「こんな通りで抱き合うなんて、うらやましいねぇー」

正樹はそれどころではなかった、この女の意識が崩れ落ちる前にタクシーを捕まえることが最大の課題だった。

 野次馬の言葉を無視して、信号待ちで止まったタクシーに手を挙げた。ハザードを付けてタクシーが反応した。ドアが開き彼女を押し込むと正樹も重なるように乗り込んだ。

「目白‥下落合△ー□、乙女山公園の方から入ってください・・また近くなったら教えます」

 狭い道を奥まで入ってもらって、やっとアパートの共同の玄関先までたどり着けた。

 女を支えて玄関で座らせて靴を脱がせた。チャコールグレーのロングスカートの裾をたくし上げると、足首までのショートカットの形のよいブーツが飛び込んできた。ブーツのサイドファスナーを下すと、黄色や緑や黒や、やたらうるさいしましま模様の靴下が目についた、足はつま先で伸び伸びをしている様子でかわいい感じがした。

 女を背中に背負うと一気に2階の正樹の部屋まで上がった。そのままベッドに倒れこむと、ここ数時間のわけのわからない展開から一時的に逃れられたような気がして、そのままベッドに吸い込まれていった。

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