第18話 「連鎖する希望、広がる世界」

画家のアトリエを後にした律と梓は、帰りのバスの中で、これまでになく穏やかな時間を過ごしていた。律の心は、画家との対話の余韻で満たされていた。彼の流した一筋の涙、そして、律の祖父の懐中時計をそっと手にしたあの瞬間。それは、彼の**「止まった時間」**が、確かに動き始めた証だった。


「律さん、すごいですよ」


バスが揺れるたびに、梓の声が心地よく響いた。


「律さんのコーヒーと、律さんの言葉が、あの画家の心を動かしたんです。私、見ていました。あの人の顔に、本当に久しぶりに、生気が戻ったのが分かりました」


律の胸に、温かいものが込み上げてきた。自分の淹れたコーヒーが、誰かの心に届き、そして、その「止まった時間」を動かすきっかけになった。それは、これまでの律には想像もできなかった喜びだった。


「僕には、時計を直すことはできない。でも、祖父が教えてくれたように、心を動かすことは、できるのかもしれない」


律は、自分の掌を見つめた。時計を壊してしまった時、絶望に震えたこの手。今は、温かいコーヒーを淹れ、誰かの心を温めることができる。その確かな感触が、律の心をじんわりと満たしていく。


カフェに戻ると、律はすぐにカウンターに立ち、祖父の懐中時計をそっと置いた。その針はまだ止まったままだが、律の目には、もう絶望の色はなかった。むしろ、未来への希望を刻むための、確かな輝きを放っているように見えた。彼は、もう過去の失敗に囚われてはいない。あの懐中時計は、律自身の再生の象徴として、そこに存在している。


翌日。カフェの開店準備をしていると、一本の電話が鳴った。受話器を取った律は、相手の声に、ハッと息を呑んだ。それは、昨日訪れた画家からの電話だった。


「……藤堂君、昨日は、ありがとう」


男性の声は、昨日とは打って変わって、どこか明るさを帯びていた。律の心臓が、高鳴る。


「君のコーヒーを飲んでいたら、不思議と、また筆を握りたいと思った。長い間、イーゼルに向き合うのが怖かったんだが、今朝、もう一度、キャンバスに向かってみたよ」


律は、信じられない思いで受話器を握りしめた。画家の「止まった時間」が、本当に動き出したのだ。


「まだ、描けるかどうかは分からない。だが、もう一度、挑戦してみようと思う。ありがとう、藤堂君。君は、まるで、あの時の藤堂のじいさんみたいだ」


男性は、そう言って電話を切った。律は、受話器を置くと、深く息を吐き出した。彼の目から、熱いものが溢れ落ちた。それは、喜びと、安堵と、そして、祖父から受け継いだものの重みを実感した涙だった。


「律さん……!」


一部始終を聞いていた梓が、駆け寄ってきた。その瞳には、感動の涙が浮かんでいる。


「画家さんの、時間が……動きましたね!」


律は、梓の言葉に、力強く頷いた。律の**「止まった時間」**が動き出したことで、それは画家へと連鎖し、確かな希望の波紋を広げたのだ。


その日の午後、カフェに清水さんが訪れた。律は、今日の出来事を、興奮気味に彼女に話した。清水さんは、律の話を全て聞き終えると、慈愛に満ちた目で律を見つめた。


「律くん、おじいさんはね、よくこう言っていたわ。『人は、一人では立ち上がれない時がある。そんな時、そっと手を差し伸べてくれる誰かの存在が、止まった時間を動かす一番の力になるんだ』と」


清水さんの言葉に、律は梓を見た。梓は、律の隣で、優しく微笑んでいる。律自身の「止まった時間」を動かしてくれたのも、梓の存在だった。梓の存在がなければ、律は未だ、あのカフェの陰に隠れたままだっただろう。


「律くんは、もう立派な『時の止まり木』の店主よ。おじいさんの意志を継いで、多くの人々の時間を動かしていく。そうでしょう?」


律は、清水さんの言葉に、深々と頭を下げた。彼の心の中には、もう迷いはなかった。


律は、自分の掌を見つめた。時計を壊してしまった失敗。時計師の夢を諦めた過去。しかし、その全てが、今、律の中で一つの線となって繋がり、彼の新たな未来を形作っている。律自身の**「止まった時間」が動き出したことで、それは画家へと連鎖し、そして、これからさらに多くの人々の「止まった時間」**を動かす、希望の連鎖へと変わっていくのだ。


「時の止まり木」の物語は、まだ始まったばかり。この小さなカフェが、やがて、人々の**「止まった時間」**を動かす希望の場所として、街に、そして遠くへとその名を知られていくことを予感させる。律と梓、そして彼らがこれから出会う人々が紡ぐ、新たな時間の物語が、ここからさらに深く、広大な世界へと、鮮やかに続いていく。


続く

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