第17話 「開かれる過去の箱」
アトリエのドアがゆっくりと開いた時、律の心臓は激しく高鳴った。昨日の電話口で感じた男性の諦念、そしてあの絵画の放つ絶望。それら全てを、律は今日、コーヒーの香りに変えて持ってきた。彼は、いつものカフェで使う豆とドリッパー、そして丁寧に磨かれたカップをリュックから取り出した。
「お邪魔します」
律は静かにそう言って、アトリエの片隅に小さなコーヒーセットを広げ始めた。男性は、ただ黙ってその様子を見つめている。彼の目は、警戒と、そして微かな困惑を宿しているようだった。律は、梓の助言通り、何も語らず、ただ丁寧に、心を込めてコーヒーを淹れることに集中した。豆を挽く音が、静かなアトリエに響き渡る。立ち上る湯気は、まるで律の胸から溢れ出す思いのようだった。
淹れたてのコーヒーを差し出すと、男性は無言でカップを受け取った。一口、ゆっくりと口に含む。彼の眉が、わずかに緩んだように見えた。律は、その小さな変化を見逃さなかった。
「……美味い」
男性が呟いた。その一言に、律の心に温かいものが込み上げてきた。コーヒーが、彼と男性との間に、小さな橋をかけ始めた。
律は、ゆっくりと話し始めた。
「あの日のこと、本当に申し訳ありませんでした。僕が壊したのは、時計だけじゃない。貴方の大切な『時間』を……そして、絵を描く夢までを、止めてしまった。そのことを、ずっと後悔していました」
男性は、カップを置いた。彼の瞳に、諦めとは違う、複雑な感情が揺れている。律は、祖父の懐中時計をそっとテーブルの上に置いた。
「祖父が遺した手帳を見つけ、旅をする中で、僕は祖父の本当の仕事を知りました。祖父は、壊れた時計を直すだけじゃない。持ち主の心に寄り添い、その人の『止まった時間』を、もう一度動かす手助けをしていたんです」
律は、画家との対面が、自分自身の「止まった時間」と向き合うきっかけになったことを語り始めた。
「僕にとっての『止まった時間』は、あの時、貴方の時計を壊してしまったこと。そして、時計師としての夢を諦め、自分自身に絶望したことでした」
男性は、何も言わず、ただ律の言葉に耳を傾けていた。彼の視線は、律の祖父の懐中時計に向けられている。
律は、カフェでの日々を思い返した。梓との出会い。清水さんの温かい言葉。祖父の手帳が教えてくれた、人々の「止まった時間」の物語。そして、その旅の途中で出会った、一度は心が動いたはずなのに、再び諦めに沈んでしまった画家。
(そうだ、あの画家も、一度は祖父によって希望を見出したんだ……)
律は、男性の目を見つめた。
「僕は、時計を直すことはもうできない。でも、心を込めてコーヒーを淹れることだけは、できる。そして、誰かの『止まった時間』に寄り添い、もう一度動かすための、小さなきっかけを作ることはできると信じたい」
律の声には、迷いがなかった。それは、画家としての夢を諦め、深い絶望の中にいる男性に対して、律が自ら経験し、たどり着いた答えだった。
「貴方の、あのイーゼルに残された未完成の絵。そこには、まだ、貴方の絵への情熱が残っていると、僕は信じています」
男性は、目を見開いた。律の言葉が、彼の心の奥底に眠っていた何かを揺さぶったのだ。彼は、ゆっくりと、しかし確実に、震える手で、律の祖父の懐中時計を手に取った。止まったままの針。しかし、その時計は、男性の掌の中で、微かに温もりを帯びているように感じられた。
男性の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。それは、長年心の奥底に閉じ込めていた感情が、ようやく解放された証だった。律は、男性のその変化に、静かに、しかし深く感動していた。彼の「止まった時間」が、今、律の目の前で、ゆっくりと、しかし確実に動き出そうとしている。律の心の中で、祖父の懐中時計の針が、かすかに、ぴくりと動いたような気がした。律自身の「止まった時間」も、この瞬間、男性の心を動かすことで、確かに動き始めていたのだ。
続く
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