第19話 「未来へ刻む音」

「時の止まり木」は、以前にも増して、温かい光と人々の活気に満ちていた。律が淹れるコーヒーは、ただの飲み物ではない。それは、心を癒し、止まった時間を動かすきっかけとなる、特別な一杯として、知られるようになっていた。画家からの電話は、その評判をさらに広げた。律の元には、様々な悩みを抱えた人々が、それぞれの「止まった時間」を動かしたいと願って訪れるようになっていたのだ。


律は、カウンターで、祖父の懐中時計をそっと眺めていた。その針は、まだ止まったままだ。しかし、もう律の心は、過去に囚われていない。むしろ、この止まった時計が、彼自身の、そして訪れる人々の「止まった時間」を動かすための、大切なシンボルとなっていることを、律は実感していた。


「律さん、今日の予約リストです」


梓が、新しいノートを差し出した。以前は小さなメモ帳だったそれが、今では厚みのあるノートになっていた。律は、梓がルポライターとして書き綴る記事が、どれほど多くの人々の心を動かしているかを知っている。梓の言葉の力と、律のコーヒーとが合わさって、「時の止まり木」は、確かに人々の希望の場所へと変わり始めていた。


「ありがとうございます、梓さん」


律は、感謝の気持ちを込めて梓に微笑んだ。梓もまた、律の穏やかな笑顔に、満面の笑みを返した。二人の間には、もはや言葉はいらない。互いの存在が、相手の心を支え、高め合う、確かな絆で結ばれていた。


その日の午後、カフェの扉が開き、一人の初老の男性が入ってきた。律は、その男性の顔を見て、息を呑んだ。男性は、律がかつて壊してしまった懐中時計の持ち主、あの依頼主本人だったのだ。


律の心臓が、激しく高鳴る。男性の目は、店内に飾られた祖父の懐中時計に向けられていた。そして、律の顔を見て、彼の目が大きく見開かれた。


「あなたが……あの時計屋の」


男性の声は、あの日の絶望とは違い、どこか落ち着いていた。律は、深呼吸をして、彼の前に立った。


「はい。藤堂律と申します。あの時は、本当に申し訳ありませんでした」


律は、深々と頭を下げた。男性は、律のその姿勢に、少し驚いたようだった。


「……君か。随分と、顔つきが変わったな」


男性は、律の祖父の懐中時計に目を向けた。


「あの時計は、まだ動かないのか」


律は、ゆっくりと首を振った。


「はい。ですが、あの時計は、僕にとって大切なものです。そして、貴方の『止まった時間』と、僕自身の『止まった時間』を、もう一度動かすための、始まりの時計です」


律は、これまでの旅で得た祖父の教え、そして自身の成長を、率直に男性に語った。一度は絶望に打ちひしがれた画家との出会い、そして、その画家の心が再び動き出したこと。律自身の過去と向き合い、未来へと歩み出す決意を固めたこと。


男性は、律の言葉を、静かに、しかし真剣な眼差しで聞いていた。彼の瞳に、かつて律が見た絶望の色はなかった。むしろ、深い理解と、そして微かな希望が宿っているように見えた。


「そうか……あの時の君は、まだ若かった。私には、君の過ちを許すことなどできないと思っていたが……」


男性は、深いため息をついた。


「君が、あれほどまでに、私の時計のことを、そして私自身のことを考えてくれていたとは。そして、そんな風に、人々の時間を動かしているとはな」


男性は、律の祖父の懐中時計をそっと手に取った。その掌の中で、止まった針が、まるで脈打つかのように、かすかに震えた。それは、律自身の「止まった時間」が、そして、男性自身の「止まった時間」が、今、確かに共鳴し、動き出そうとしている証だった。


「あの時計は、もう二度と直らないかもしれない。だが、君のコーヒーは、私の心を温めてくれた。そして、君の言葉は、私の『止まった時間』に、新しい光を灯してくれた」


男性は、律の目をまっすぐに見た。


「ありがとう、藤堂君。君は、もう、私の時計を壊した、ただの時計師じゃない。君は、『時の止まり木』の店主だ」


男性は、そう言って、律に深く頭を下げた。律の目から、熱い涙が溢れ落ちた。長年彼を縛り付けていた、過去の重荷が、今、完全に解き放たれたのだ。


律は、自分の掌を見つめた。時計を壊してしまった失敗。時計師の夢を諦めた過去。しかし、その全てが、今、律の中で一つの線となって繋がり、彼の新たな未来を形作っている。律自身の**「止まった時間」**は、完全に動き出した。それは画家へと連鎖し、そして今、あの依頼主の心をも動かした。希望の連鎖は、確実に広がり、この街全体、いや、世界へと広がっていく。


「時の止まり木」は、これからも多くの人々の「止まった時間」を動かす場所となるだろう。律と梓、そして彼らが紡ぐ物語は、未来へと刻まれ続ける。祖父の懐中時計の針が、いつか、再び動き出すその日まで、律の「時を刻むカフェの記憶」は、永遠に続いていくのだ。

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