六、
夏の風が、背後から静かに追いかけてきていた。
照りつける日差しの中に、ほのかに湿った土の匂いが混ざる。
空は澄んでいたが、遠くの空気には、ひっそりと稲光を孕んだ雲のうねりがあった。
私は、トーゴとふたり、坂道を登っていた。
住宅街のはずれ。やや急な傾斜を越えた先に、古びた校舎が見えてくる。
白く塗られた壁は、ところどころ剥がれ、少し傾いた陽を受け止めて、眩しく光っていた。
「……学校、だね」
トーゴが、ぽつりと呟く。
「うん。通り道だからって、気まぐれに来ただけ」
私は、掌で帽子のつばを模し、目の上に
「でもさ、こういうの、よくあるよね。イズミさんって、無意識のうちに“必要な場所”に向かってる気がする」
「勘のいい霊媒師ってやつ?」
「ううん。イズミさん自身が、呼ばれてるんじゃないかな」
この暑さの中、汗ひとつかかずにトーゴは言った。
その言葉に、私は少しだけ歩みを緩めた。
冗談みたいなトーンなのに、不思議とひっかかる何かがあった。
鉄製の門扉は開いていた。
敷地の外れには、乾いた草が風に揺れ、セミの声が遠くからこだまする。
人の気配はなかった。けれど――
「……あれ」
トーゴが、校舎の裏手を指さす。
そこに、ひとつの残像があった。
背丈は低い。声も、無邪気で、子どもらしい調子だった。
「「お姉ちゃん、この学校、来たことある?」」
影が言う。
「ない。と、思う」
私は慎重に答える。
「「でもね、なんか、来たことある気がするんだよ。ぼく」」
その語尾は軽く、屈託がなかった。
けれど、その口調の奥に――妙な既視感があった。
それはまるで、誰かの記憶を借りて喋っているような、ずれた明るさだった。
「「ここってさ、音が静かすぎるよね。ほら、水の音ってさ、いつもは誰かを映してるのに、ここだとぜんぶ〝沈んじゃってる〟みたいで」」
影は笑っていた。
だが、笑顔の奥には、どこか乾いたものがあった。
「「ずっと。水の中にいるみたいだったんだ。
気持ちとか、時間とか、そういうのが、ぜんぶ、水で薄まってる感じ。
誰かを見てた気がするし、喋ってたような気もするんだけど、顔も思い出せないんだ」」
私は言葉も返せず、ただ立ち尽くしていた。
トーゴはすぐ隣にいたが、何も言わなかった。
――息を潜めて、何かを思い出そうと、どこか戸惑い、目を伏せていた。
「イズミさん」
やがて彼が口を開いた。
「どこかで聞いた気がする。この声。昔……あの、初めて僕が〝助手にして〟って言ったとき。
あの夢の中。あれと……似てる」
私は振り返らず、残像を見つめ続けていた。
足元の土が乾いてひび割れ、足音も吸い込まれるほど静かだった。
「「お姉ちゃん、今日は泣いてないね」」
「泣く理由……?ないよ」
「「でもさ、ちょっと前までは、目がにじんでたよ。
あのとき、あの女の子の話、してたとき」」
私は息を止めた。
「見てたの?」
「「ずっと、見てた。ここから。ぜんぶ、透けてた。
お姉ちゃん、時々、自分のこと、見ないようにしてるから」」
「……それは、あんたの話じゃないの?」
「「かもね。
あのとき、地面で倒れてると思ったら、気づいたら暗い、水の中にいて、でも音は聞こえてたの。
あったかい声で、〝またね〟って、言ってた。
あの声が、最後だったんだよ。ぼくにとっての」」
言葉の端々は、無邪気なままだった。
けれど、語られる〝最期〟の内容は、どうしようもなく残酷だった。
その瞬間、ふと陽射しがかすかに陰った。
風が鳴り、セミの声が遠ざかる。
そして私は、彼の姿を見た。
――それは、その姿は、三十代前後の男だった。
顔立ちはどこにでもいるようなものだった。
痩せていて、疲れたような眼差し。
だが、その瞳の奥には、少年のようなまっすぐさが宿っていた。
「「じゃあね、お姉ちゃん。還らなきゃ。自分の学校に」」
男はふわりと笑い、校舎の奥へと歩いていった。
その背中が、炎天下の透明な光が反射する壁になめらかに交わり、静かに、消えていった。
◆
坂を下りながら、トーゴと並んで歩く。
どちらからともなく、言葉を失っていた。
蝉の声が、頭の上で鳴いているのに、どこか別の場所から聞こえてくるようだった。
それが、過去に取り残された音と共鳴し、この世界すべてを揺らしているかのごとく感じられた。
「イズミさん」
トーゴが、少し小さな声で言った。
「思い出しそうなのに、思い出せない。
ああいう人を見てると、自分が〝思い出してないこと〟に気づかされるんだ」
「霊ってさ」
私はぽつりと言った。
「成仏できない理由があるって、よく言うだろ。
でも、そういうのって、怒りとか悲しみだけじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「――自分が〝何をしたのか〟を、思い出せないこと。
あるいは、自分が〝何者だったのか〟を、認めたくないこと。
そういうのが、〝罰〟なんじゃないかって」
トーゴは歩みを緩めた。
「じゃあ、僕も、何か罰を、受けてるのかな」
「わからない。でも、たぶん、お前は、〝いる〟ってことだけで、罰から逃れ続けてる気がする」
「〝イズミさんのそばにいる〟ことで?」
「かも」
そのまま、しばらく二人で歩いた。
風が少し強まり、葉擦れの音が耳をかすめていく。
私は、さっきの男の声を思い出していた。
子どもじみて喋りながらも、彼は明らかに大人だった。
彼の中にいた子どもと、彼自身――その〝間〟に落ちた何かが、あの言葉を紡がせていたのだろう。
思い出さないことで保たれる霊がいる。
けれど、思い出すことで救われる者もいる。
その狭間に、トーゴがいる。
私のそばにいながら、自分を縛る〝記憶〟を持たないまま、ただ、笑っている。
それが、たまに、こわくなる。
夏の空が高く、白い雲が揺れていた。
けれどその明るさの奥に、ふと影が差すような気がして、もう一度、空を見上げた。
目を細めて空を仰いだ私は、その気配が、どこから来るのかをまだ知らなかった。
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