五-五、
午前七時。
目覚ましが鳴る三秒前に、私は目を開けた。
窓の隙間から入り込んでくる光はまだ柔らかく、カーテン越しに淡く部屋を染めている。
春の終わり。
風は温もりを孕んでいたが、どこか名残惜しげな冷気を帯びていた。
ベッドの上でしばらくまどろみ、腕を伸ばす。
その指先が触れたのは、見覚えのないマグカップだった。
中には、ぬるくなった白湯。
――おそらく、私が寝ているあいだに置かれたものだ。
誰が、とは言わない。言うまでもなかった。
キッチンに立つと、冷蔵庫の上に小さなおにぎりが置かれていた。
中身は昆布。私が好きな、甘辛く煮たやつ。
しかも、近所のどこにも売っていない銘柄だ。
問いは投げなかった。
けれど、空気は答えていた。
トーゴがふいに口を開いた。
ソファに座って、猫のように膝を抱えている。
「イズミさん、おはよう。今日、雨降るって思ってたでしょ」
「うん。天気予報見た?」
「見てない。でも、昨日の夜、靴下が〝部屋干し用〟の干し方だった。
あと、傘はいつも右のラックに掛けるのに、昨日だけ玄関の左に置いてた」
私は目を伏せ、トーストの端を噛んだ。
「相変わらず気持ちの悪いヤツだな」
「ひど」
いつものやり取りをすると、トーゴは笑った。
その声は、まるで初夏の風のように爽やかで、無邪気だった。
「昨日。で思い出したけど、コンタクト、左右間違えてたでしょ」
「なんで?」
「右目の焦点、合わせにくそうだった。ちょっと左肩をすくめるクセ、出てたよ。
あれ、二年前の冬にもやってた。事務の仕事してたとき。最終出勤日の朝」
「へえ。そうなんだ」
「うん、イズミさんのことならなんでも知ってるよ」
言葉の裏に、熱も棘もない。
ただ、当然のこととして、彼はそう言った。
部屋には、私のものしかない。
最近わかったことだが、トーゴが触ることのできる現実は、それだけだ。
彼が手に取れるのは、『私のためになるもの』か、『私の持ち物』だけ。
まるで〝そこに縛られている〟ようだった。
逆に言えば、私に無関係なものは、彼の世界では存在できない。
彼の存在そのものが、私を中心にして構築されている――そんな風に感じた。
◆
夕暮れ。
私はソファのいつもの場所へ身を沈め、ぼんやりとテレビを眺めていた。
番組の内容は入ってこない。
今日が何曜日なのかさえ曖昧だった。
トーゴは斜め向かいの床に座り、本を読んでいた。
けれど、私は気づいていた。
表紙が逆だったことに。
ページがずっと進んでいなかったことに。
彼の視線は、本ではなく、テレビのガラスに映る私の横顔に向いていた。
――私は、それを見なかったふりをした。
その夜、机の上に一通の封筒が置かれていた。
中には、小さな付箋が一枚。
「よく眠れますように。もうすぐ夏だけど、まだ乾燥してるから、加湿器の水、換えておいたよ」
あの加湿器は、私のだった。
トーゴが触れられる、数少ない〝現実〟の一部。
私は、下を向いたまま、手紙をそっと畳む。
そして、加湿器のスイッチを入れた。
立ちのぼる蒸気が、夜の静寂へと、溶けていく。
その煙の中に、言葉にできない感情が同居していた。
ただ、沈みゆく意識の端で、おぼろげながら、思考は動いていた。
――思い出しているのかもしれない。
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