五、
春の風が、川沿いの町を優しく撫でていた。
光を孕んだ風の粒が、薄紅色の輪郭をゆっくりと揺らす。
日差しはまだ淡く、空はすこし霞んでいた。けれど、肌を撫でる空気のなかには、確かに、暖かな季節の気配があった。
静けさにまぎれるように、私はそこにいた。
小さな依頼だった。
〝娘が、春になると川を見たがるようになって〟
とだけ書かれた、余白の多い手紙。
差出人の名はなかった。
けれど、不思議と、すぐに思い至った。
ここだ、と。
川沿いの並木道。低い手すり。
膝ほどの高さの柵に、枝垂れかけた桜の枝がかすかに触れていた。
ゆるやかな斜面には清冽に緑が芽吹いている。
かつて誰かが腰かけたらしいベンチの木目は、雨に洗われて滑らかになっている。
見知った景色ではない。けれど、胸の底が懐かしさにちくりと疼いた。
記憶にないのに、記憶のように感じられる感覚。
私はひとつ、息を吸い込む。
暖かくも冷たくもない、ほんの少し、湿り気を帯びた風の匂いが、胸の奥を満たしていった。
◆
桜は七分咲き。
けれど、この町の春は、すでに終わりへ向かう途中に見えていた。
どこかくぐもった空気。地面近くに漂う冷気。
うっすらと色づいた景色のすぐ下に、まだ冬のさざめきが残っているようだった。
私は風に靡く髪を、時折手櫛で整えながら、水の流れと歩いた。
その音は遠く、風も弱い。
けれど、その静けさが逆に、耳の奥をざらりと撫でてくる。
言い表せない何かが、ここに混ざっている気がした。
しばらくのんびりと歩き続けていると。〝そこ〟に辿り着いた。
川辺の、柵の向こう。
一本の若い桜の下に、小さな影が立っていた。
制服姿の少女。
川べりにすとん。と腰を下ろし、肩までの髪が陽の光を孕んでいる。
しかし——繋がるはずの黒は、見えなかった。
彼女は、誰かに話しかけているように見えた。
けれど、その隣には、誰の姿もない。
その身振りは、誰かに微笑みかけているようでもあり、あるいは――別れを告げているようにも見えた。
——その光景は、紛れもなく、幸せの形をしていた。
私は立ち止まったまま、遠く、そっと見守る。
声をかけるべきか迷ったが、その空気の、澄んだ静けさの中、雑多を走らせることに、どうしてもためらいがあった。
少女は、しばらくそこに佇んでいた。
そして、ほんの少しだけ、首をかしげるようにして、なにかを確かめるように視線を落とした。
風が、また、吹いた。
一枚の花びらが舞い、少女の肩へと向かう。
けれどそれは、触れることなく、すり抜けて地に落ちた。
その瞬間、少女の唇が、かすかに動いた。
――気にしないで。もう、大丈夫だよ。私、だいじょうぶだから
その声は、春の淡さに溶けるようだった。
やわらかく、途切れがちで、けれど、確かに誰かへと語りかけていた。
私は、その光景を丁寧に手折るように、静かに線香を取り出し、手のひらで包むようにして火を点けた。
柔らかな赤が灯り、淡いグラデーションが空へと上がっていく。
立ち上って行く煙は、ふわりと流れ、少女のそばを通りすぎた。
その境界は、まるで桜の影と重なって行くように、薄くなっていく。
彼女は、最後に一度だけ振り返り、わずかに目を細めて、微笑んだ。
その笑顔は、春の終わりに似ていた。
暖かくて、寂しくて、それでも前を向いている。
そして、風に舞う花びらに紛れるように、川のせせらぎに流れるように、その姿は、静寂とともに、消えていった。
――その場所には、牡丹の花束が
◆
帰り道、橋の上で足を止めた。
流れの中には、うすく桜の色が滲んでいた。
風が吹くたび、水面の影が揺れて、まるでもうひとりの誰かが隣に立っているようだった。
あの子は、誰かに別れを告げていた。
あるいは、最後の言葉を渡していたのかもしれない。
その声が誰に届いたのか、もう私には分からない。
けれど、きっと届いたのだろうと、そう思えた。
川は、すべてを、優しく、包みこんでいた。
声も、記憶も、名前も、姿さえも。
そのすべてを抱いたまま、町を春に染めていく。
それは、固まってしまった氷を解かすように。
初めて、この場所に春が流れて行くように感じた。
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