五、

 春の風が、川沿いの町を優しく撫でていた。

光を孕んだ風の粒が、薄紅色の輪郭をゆっくりと揺らす。

日差しはまだ淡く、空はすこし霞んでいた。けれど、肌を撫でる空気のなかには、確かに、暖かな季節の気配があった。


静けさにまぎれるように、私はそこにいた。


 小さな依頼だった。

 

〝娘が、春になると川を見たがるようになって〟


とだけ書かれた、余白の多い手紙。

差出人の名はなかった。

けれど、不思議と、すぐに思い至った。

ここだ、と。


 川沿いの並木道。低い手すり。

膝ほどの高さの柵に、枝垂れかけた桜の枝がかすかに触れていた。

ゆるやかな斜面には清冽に緑が芽吹いている。

かつて誰かが腰かけたらしいベンチの木目は、雨に洗われて滑らかになっている。


 見知った景色ではない。けれど、胸の底が懐かしさにちくりと疼いた。

記憶にないのに、記憶のように感じられる感覚。


 私はひとつ、息を吸い込む。

暖かくも冷たくもない、ほんの少し、湿り気を帯びた風の匂いが、胸の奥を満たしていった。





 桜は七分咲き。

けれど、この町の春は、すでに終わりへ向かう途中に見えていた。

どこかくぐもった空気。地面近くに漂う冷気。

うっすらと色づいた景色のすぐ下に、まだ冬のさざめきが残っているようだった。


 私は風に靡く髪を、時折手櫛で整えながら、水の流れと歩いた。

その音は遠く、風も弱い。

けれど、その静けさが逆に、耳の奥をざらりと撫でてくる。

言い表せない何かが、ここに混ざっている気がした。



 しばらくのんびりと歩き続けていると。〝そこ〟に辿り着いた。

川辺の、柵の向こう。

一本の若い桜の下に、小さな影が立っていた。


 制服姿の少女。

川べりにすとん。と腰を下ろし、肩までの髪が陽の光を孕んでいる。

しかし——繋がるはずの黒は、見えなかった。


 彼女は、誰かに話しかけているように見えた。

けれど、その隣には、誰の姿もない。

その身振りは、誰かに微笑みかけているようでもあり、あるいは――別れを告げているようにも見えた。


——その光景は、紛れもなく、幸せの形をしていた。


 私は立ち止まったまま、遠く、そっと見守る。

声をかけるべきか迷ったが、その空気の、澄んだ静けさの中、雑多を走らせることに、どうしてもためらいがあった。


 少女は、しばらくそこに佇んでいた。

そして、ほんの少しだけ、首をかしげるようにして、なにかを確かめるように視線を落とした。


 風が、また、吹いた。

一枚の花びらが舞い、少女の肩へと向かう。


けれどそれは、触れることなく、すり抜けて地に落ちた。


その瞬間、少女の唇が、かすかに動いた。


――気にしないで。もう、大丈夫だよ。私、だいじょうぶだから


 その声は、春の淡さに溶けるようだった。

やわらかく、途切れがちで、けれど、確かに誰かへと語りかけていた。


 私は、その光景を丁寧に手折るように、静かに線香を取り出し、手のひらで包むようにして火を点けた。

柔らかな赤が灯り、淡いグラデーションが空へと上がっていく。


 立ち上って行く煙は、ふわりと流れ、少女のそばを通りすぎた。

その境界は、まるで桜の影と重なって行くように、薄くなっていく。


 彼女は、最後に一度だけ振り返り、わずかに目を細めて、微笑んだ。

その笑顔は、春の終わりに似ていた。

暖かくて、寂しくて、それでも前を向いている。


 そして、風に舞う花びらに紛れるように、川のせせらぎに流れるように、その姿は、静寂とともに、消えていった。


――その場所には、牡丹の花束がささげられていた。



 ◆



 帰り道、橋の上で足を止めた。

流れの中には、うすく桜の色が滲んでいた。

風が吹くたび、水面の影が揺れて、まるでもうひとりの誰かが隣に立っているようだった。


 あの子は、誰かに別れを告げていた。

あるいは、最後の言葉を渡していたのかもしれない。

その声が誰に届いたのか、もう私には分からない。

けれど、きっと届いたのだろうと、そう思えた。


 川は、すべてを、優しく、包みこんでいた。

声も、記憶も、名前も、姿さえも。


そのすべてを抱いたまま、町を春に染めていく。

それは、固まってしまった氷を解かすように。

初めて、この場所に春が流れて行くように感じた。

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