四、
風の匂いが、変わっていた。
土と葉の湿り気に、うっすらと金属めいた冷たさが混じる。
乾いた大気が肌をなでるたび、皮膚の下に、音のない棘が入りこんでくるようだった。
まだ積もりはしない。
だが、街を離れるにつれ、空にはゆっくりと白が混じりはじめる。
ちらちらと降り出した雪は、空気の重さに従い、まるで、思い出の層に触れるように落ちていた。
その日、私たちは地図の隅に名前だけ残った集落へと、レンタカーで向かっていた。
道なき道を行くには、バスも電車も伸びてはいなかったのだ。
舗装の切れた、山あいの細道を進むたびに、世界が、静かに色を失っていく。
赤も、黄も、すでに地に還り、枝は骨のように乾いていた。
風はなく、音もなく、ただ、過去だけが残っているような場所だった。
「……完全に、廃村だね」
助手席でトーゴが言う。
彼の声だけが、現在というものを証明していた。
私は黙ったまま、視線を前に向ける。
車のライトに照らされた先、斜面に沿って、朽ちかけた民家がいくつか連なっていた。
屋根には落ち葉が積もり、雨樋は外れ、軒下には風にさらされた洗面器がひとつ。
誰もいないのに、誰かがいた痕跡だけは、そこかしこに残っている。
車を停める。ガチャリ、とドアを開けた。
季節が変わったことを知らせる風が、車内の空気と入れ替わった。
靴が地面を踏んだ音が、やけに遠くに聞こえた。
足もとには、ひとつ、またひとつと、白が舞い落ちてくる。
けれど、それはすぐに溶けて、消えた。
依頼主は、名乗らなかった。
ただ、小さな封筒に短くこう書かれていた。
〝窓の向こうに、白い子が立っていた。その白が周囲に溢れ出ているようだった〟
裏面には、消えかけた地図と、ひとつの家の印。
◆
それは、お屋敷と言う呼び方のほうが似合う、厳かな家屋だった。
斜面の端に存在感を示すように立っている。
山に抱かれるようなかたちで、軒は傾き、壁はすこし膨らんでいた。
近づくにつれて、土間から草の匂いが混じる。
けれど、不思議と嫌な臭いはしなかった。
「こんなところに、こんな立派な建物。どんな人が住んでたんだろう?」
雪のチラつく中、いつもと変わらない服装をしているトーゴは言った。
引き戸は、触れると思いのほか、簡単に動いた。
かすれた音を立て、歪んだ木枠の向こうに、かつての生活が沈黙のまま広がっていた。
半開きの襖の奥には、押し入れが虚空をしまい込んでいる。
燻された天井の闇は、今にも落ちてこようとしている。
囲炉裏には座布団がひとつ。そばには欠けた湯呑み。
時間だけが、ここを抜けていった。
私はこの静謐を壊さないよう、ゆっくりと懐から線香を取り出し、マッチの火を移した。
古びた空間に、わずかな煙がのぼっていく。
乾いた匂いが、甘さを薄めるようにこの家の、無色の静けさに、混ざって行った。
そのときだった。
気配が変わった。
背後、ふとした空気の揺らぎ――。
「イズミさん、後ろ」
トーゴの呼びかけに視線を向けると、障子の向こうに、小さな影が立っていた。
白いワンピース。
肩にかかるくらいの髪。裸足の足元に、埃はついていない。
畳に影は落ちていなかった。
少女は、私を見ていた。
声もなく、動きもせず、ただ、じっと。
その瞳には、まだ言葉を持たない動物のような、あどけなさと怯えが共存していた。
私は、口を開いた。
「なにか、探してる?」
少女は、小さく頷いた。
音はなかったが、唇がわずかに、たどたどしく動く。
「……あかりって、どこにあるの?」
空気に溶けるような声だった。
「灯り?」
私は一言だけ発すると、少しだけ、彼女の近くに踏み出す。
香の煙が、少女の胸元を揺らしながら通り過ぎていく。
彼女は、微かに、目を伏せた。
「あのね、まえにね、だれかが、きてくれたの」
「でも、まっしろで……なにも、みえなくて…こえも、ぜんぶ、なくなっちゃったの」
その言葉は、どこかの時間をなぞるようだった。
灯りを探す、という行為が、この子の中ではずっと続いているのかもしれない。
誰かに手を伸ばしながら、なお、見つけられないまま。
私は、感情が混じった、溜め息のような息を、そっと吐く。
目を細めると、少女の姿は、もう少しだけ霞んで見えた。
雪が舞う気配のなかで、彼女の輪郭はふわりと揺れ、やがて、音もなく消えていった。
ふと舞う、雪の匂いが残った。
まるでずっと昔、誰かがその名を呼んでいたような、そんな気がした。
◆
帰り道、空はさらに低くなっていた。
車のフロントガラスには、ちらちらと降る雪が、音もなく舞い落ちる。
それは、積もるにはあまりに軽く、触れればすぐに溶けてしまう儚さだった。
「……イズミさん」
助手席のトーゴが窓に顔を向けたまま、言った。
「〝灯り〟って、なんなんだろうね」
「明るさのことじゃない。あたたかさのことでも、ない。たぶんな」
私は眼差しの方向は変えずに、静かに答える。
でも、思い出せる。そういう何か。
トーゴは目を伏せた。
長いまつげの影が、頬におちる。
ポケットの中で手を握った。
何も持っていないのに、手のひらだけが少しだけあたたかかった。
遠くで風が鳴った。
木々のざわめきが、静かに冬のはじまりを告げていた。
あの子は、「灯りがほしい」と言った。
けれどそれは、光そのものじゃなかった。
寒さを凌ぐ焚き火でも、暗闇を払う電灯でもない。
――もっと、根の深いもの。
たぶん、あの子は、最期の瞬間を迎えたあとも、自分がどこにいるのか分からなかったんだ。
真っ白な世界に置き去りにされて、時間も、記憶も、名前さえも、少しずつ沈んで行って。
それでも彼女の中に残っていたのは、〝何かを探していた〟という、微かな感覚だけだった。
――灯り。
それは、帰る場所かもしれない。
抱きしめてくれる人かもしれない。
あるいは、自分が自分であったという証そのもの。
その手が届く先には、何があったんだろう。
彼女はきっと、それを見つけられなかった。
けれど、見つけた〝つもり〟になって、ようやく静かになれたんだと思う。
私は、何もしていない。
線香を焚いて、煙を流して、ただ、そばにいた。
それだけで十分だったのか。
それとも、あの子が望んでいた〝灯り〟には、自分では、なれなかったのか。
答えは、たぶん、どこにもない。
でも。
あの手の輪郭が、ほんの一瞬、やわらかく見えた気がした。
白のなかに、微かに残っていたぬくもり。
それが彼女の〝さよなら〟だったのだと、そう思うことにしている。
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