三、
朝の光は、淡く霞んでいた。
バスの窓越しに流れるその景色は、鮮やかな秋色とは対照的に、どれも少しだけ眠たげで、まだ街が完全に目を覚ましていないことを知らせていた。
私は揺れる車内に身をまかせながら、遠くの山裾に目を向ける。
雲の切れ間から、細い光が一本、まっすぐ地表へと差し込んでいた。
目的地に着いたのは、午前九時すぎ。
ゆるやかな坂を上った先に、件の家はひっそりと佇んでいた。
木立に囲まれた古い一軒家。
庭の雑草は伸び放題で、外壁はところどころ色褪せていたが、全体の輪郭には、不思議と気品のようなものが残っていた。
ポストに入っていた銀色の鍵は、ひやりと冷たかった。
玄関を開けると、空気がかすかに動いた。
長く人が住んでいないじっとりとした、灰色の匂い。
埃と木の匂いが、鼻腔を濁らせた。
「懐かしい感じがするね」
近頃は、すっかり依頼先まで、当たり前な顔で同行するようになっていた、トーゴが呟いた。
その声もまた、ごく普通に馴染んでいた。
彼は、勝手知ったる風に、畳の廊下をゆっくりと歩き出す。
「特に変わった気配はないね。でも……ちょっとだけ残ってる」
私は目線をやらず、黙って、リビングの窓をそっと開けた。
外の風がふっと入りこみ、破れてしまっているレースカーテンを揺らす。
陽射しは、やさしい明るさを帯びて、ガラスの隙間から漏れていた。
家具はすべて白い布をかけられ、どこか別の時間の中に沈んでいるようだった。
まるで、思い出そのものをそっと包んで、今は眠らせているように。
階段を上がると、ひとつだけ、扉が半端に開いていた。
その奥は、小さな書斎だった。
書棚には何冊かの古書が残されており、机の上には色褪せた写真立てが置かれていた。
若い両親と、その間に座る女の子。
笑っているはずの写真なのに、どこか音のない映像のようで、沈黙だけがそこに写っていた。
「優しい顔だね」
トーゴがぽつりと言った。
私が返事をしなかったことで、それは独り言になっていた。
写真立てにそっと手を伸ばした。
乾いた木の感触。持ち上げたとき、裏側の薄い埃が、さらりと指先に移った。
切り取られた風景の中の女の子は、髪が少し跳ねていて、誰かが慌てて整えたようにも見えた。
撮ったその日が、家族にとって特別な日だったのかもしれない。
トーゴは、埃を感じるでもなく、まるで古い時間の中にするりと入り込むように廊下を歩いていた。
そのときだった。
背中にふっと、時の隙間から染み出すような気配に触れた気がした。
気のせいかもしれない。
けれど確かに、〝誰か〟がいたような、確かな温度がそこにはあった。
「――ありがとう」
耳の奥で、小さく声が響いた。
「聞こえた?」
トーゴが言う。
私は少しだけ首を傾けて、答えた。
「たぶん、気のせい」
書斎を出る前に、一度だけ振り返った。
窓の外には、橙に色づきはじめた柿の木が、静かに揺れていた。
家を出て、玄関にもう一度だけ軽く頭を下げる。
敷石の隙間から、小さな草花が咲いていた。
白い花弁が、朝の風に揺れている。
「イズミさんさ」
トーゴが、何気なく言った。
「こういうところ来ると、ちょっと優しくなるよね」
「そうか?」
続けて言った。
「たぶん。誰かの記憶が、まだ残ってるから」
適当に返したあと、ポストへ鍵を戻す。
遠くから、鳥の鳴き声がした。
空はすこし曇っていて、けれど不思議と、その曖昧な色が、気持ちを落ち着かせた。
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