第1話 「青年 八月中旬」

蝉の声が、煩くて目が覚めた。

寝ぼけ眼で枕元の携帯を見ると、時刻は10時23分と表示されている。

まだ寝ていたい気持ちでいっぱいだが、蝉はそんな心を露知らずに鳴き続けている。

何か嫌なことでもあったのかい。

そんな少しのお調子を心の中で説きながら、カーテンを空けた。陽の光が本格的に朝を知らせてくる。今日も暑くなりそうだ。

階段を下り、リビングに出ると母さんが台所に立っていた。

「おはよう」

「ん〜」

母さんの挨拶に適当に返し、僕はソファで改めて横になる。

「あんた今起きたばっかなのにまた横になって、少しはまともに生きなさいよ」

「夏休みだから〜後でやる〜」

母さんは小声でブツブツと僕への文句を言いながら洗い物へ戻った。洗い物?

「あれ?僕の朝ごはんは?」

「あんた最近いつも起きる時間バラバラだし用意してないよ」

「えぇ?今日は朝起きるだろ〜」

「知らないわよそんなの、あんたの気まぐれに付き合ってる暇はないんです、外で食べてきなさい」

なんて薄情な母親なんだ。まだまだ育ち盛りの息子のご飯を適当な外で済ませろだなんて。

僕は不満を目一杯顔に表しながら、洗面台に向かい身なりを整える。と言っても寝癖を直して歯を磨くだけだ。この年齢にしては肌荒れも少なく今流行りのスキンケアと言うやつはしていない。歳をとってから後悔するらしいがまあいいだろう。その時考える。


ギリギリ外に出られる程度の身なりにしてから財布をポケットにいれて外に出る。

夏も本番、容赦のない日差しに少し項垂れた。

年々暑くなってきてるな、温暖化ってやつですかね。頭の中でそんな一人喋りをしながら駅まで向かう。最寄り駅はそこまで遠くなく、飲食店も多くあるので割と好立地だ。

何を食べようか。朝だしそこまで重たくないものがいい。そこまで長考もせず、チェーンの喫茶店に入ることにした。小さい頃飲んだ長靴の形をしたメロンソーダが飲みたくなったからだ。

店内に入ると冷気が僕を纏った。これも夏の風物詩の1つだろう。入口付近で待っていると若い男性店員が直ぐに来て席へ案内してもらった。

席に着き、適当なホットサンドとメロンソーダを頼む。

店内は賑わっていた。夏休み期間ということもあるのだろう。僕と同じ歳くらいに見える女の子が母親らしき人物と来ていたり、小さい子供二人と両親二人の家族や、老夫婦もいる。年代関係なくこの店は人気だ。

眺めていると、家族連れの子供が僕と同じメロンソーダを頼んでるのが見えて少し恥ずかしくなった。矢先僕の所にもメロンソーダが届く。長靴の形のコップにメロンソーダが入って、上にアイスクリームがのっている。美味そう。

続いてホットサンドも届き、僕は優雅な朝食を終えた。

ふぅ、と一息つきながらぼーっと天井を眺める。壁掛け時計は11時46分を示していた。

「いい加減にしてよ!」

机を叩く音と一緒に、大きな声が店内に響いた。その音は店内の空気と相容れず、全ての意識を集めていた。

「お母さんは何も分かってない!分からないことは悪くないけど、分からないなら口出ししないでよ!私の人生でしょ!」

あぁ、こんな時間から揉めるなんて可哀想に。僕と歳が近いであろう女の子は、恐らく進路の話でもしていたのだろう。母親は周りの視線を気にしながらオドオドとしている。

「私は命を懸けてる!全てを懸けてるの!」

と、かっこいいセリフを残しながら女の子は先に一人で店を出て行った。

母親はその後周囲に向かって、頭を下げ、もう一度席に着いた。周囲の客はそれを見ると自分は関係ないと言わんばかりに自分達の世界に戻っていく。僕も例外ではない。

その出来事から5分もせずに僕は店を出た。


夏の日差しは絶好調だった。陽炎に揺らぐコンクリートの上を歩いていく。汗が垂れ、ぼーっとしてしまうくらいの暑さの中を歩いていると、さっきの出来事を思い出す。

「将来、か。」

僕にはやりたいことも、好きなこともない。趣味と呼べるほどのものもない。

幼い頃は好きだったテレビゲームは、年々やらなくなっていった。音楽は聴くのは好きだが、やる気にはならない。読書も父の影響で読んではいたが、今は月に1冊読めばいい方だ。スポーツもやらない。映画もあまり見ない。

周りは言う。若いんだから。と。

でも僕には何も無い。未来を示してくれる道標が。支えが、何も無い。

そんなことを考えていたら、家に着いていた。

暑いからこんなことを考えてしまうんだ。早く家に入ろう。そしてまた何も無くだらけた1日を過ごそう。


ガチャ。ガチャガチャ。ガッ。


開かない。なぜ開かない。鍵は持ってない。

急いで母さんに電話をかける。

「もしもし、何よ」

「母さん?帰ってきたんだけどドア開かないよ、鍵もってないから早く開けて」

「えーなんで持ってないの!私買い物出かけちゃってるよ、少し時間かかるよ。」

信じられない。帰りたいのに。

「後でお金あげるから、近くで時間でも潰してきなさい。1-2時間で帰るから。」

「わかった。」

と言って電話を切る。本当はもう一歩も歩きたくない、僕は一日に二度家を出るのが大嫌いなんだ。

と言っても、この暑さだ。こんなところで待ってたら流石に死んでしまう。

僕は素直に家の門を出て、さっきとは反対方向に歩いていく。

確かこっちにいい感じの喫茶店があったはずだ。そう遠くない。そこで時間を潰そう。

少し歩くと目当ての喫茶店は見えてきた。


店内は寒いほどエアコンが効いていた。

汗がしっとりと肌についていることに気づいた。長い前髪にも汗がついていて鬱陶しい。

久しぶりに来たが、いい雰囲気のお店だ。老夫婦が営業していて、ラジオではジャズが流れている。暖色なライトでアットホームな空気を醸し出している。お客さんも常連ばかりなんだろう。四角テーブルの席におじさんが数人、カウンター席にもおじさんが一人、それと...

「あっ!」

思わず大きな声を出してしまった。

そのせいで目が合ってしまう。彼女は怪訝そうな目で僕を見ている。

あ、少し目が赤い。あの後泣いたのかな。


そう、さっきの女の子だ。

「何ですか?」

と僕に言った。

僕は考える間もなく

「何も。」

と言って目を逸らした。


店員に案内された席はその子のひとつ挟んだ隣だった。

最悪だ。すぐ出よう。もう少し歩けば公園がある。そこに居よう。この猛暑の中外にいるのは危険かもしれないけれど、何より変なやつだと思われたくない。

そう考えながら急いでアイスコーヒーを頼んだ。


ポンポン。


皮を叩いた時、ランドセルを叩いた時のような質感の音が右から聞こえる。

恐る恐る目を向けると、彼女はこっちを見ながら、間の席を叩いている。

「こっち、座りなよ。」


変な人は、彼女の方だった。

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