第2話『見えない景色、聴こえる声』

 響と莉子が降り立ったのは、東京から電車で二時間ほどの、海沿いの小さな町だった。潮の香りが混じった風が、彼らの頬を撫でる。響は静かに深呼吸をした。この感覚が、彼にとっての『景色』だった。


「先生、ここ…。」莉子の声には、困惑が混じっていた。


 彼女の目に映るのは、錆びついたトタン屋根の小屋が点在する、寂れた漁港の風景。響は微笑んだ。


「ここだよ。僕が、初めて『音の自由』を知った場所だ。」


 彼らが向かったのは、港の奥まった場所にある、さらに古びた木造の小屋だった。扉を開けると、中は埃っぽく、古本の匂いがした。部屋の中央には、一台のアップライトピアノが置かれていた。鍵盤は黄ばみ、調律も狂っているようだったが、響の指が触れると、どこか懐かしい音が響いた。


「昔、ここに住んでいたおじいさんがいてね。彼は盲目の漁師だった。ある日、嵐で漁に出られなくなって、退屈しのぎにピアノを弾き始めたんだ。楽譜なんて読めなかったけれど、彼の弾く音は、まるで海そのものだった。」響はそう言って、莉子に語りかけた。「彼はね、僕に教えてくれたんだ。音楽は、頭で考えるものじゃない。心で感じて、身体で表現するものだって。」


 莉子は黙って、響の話に耳を傾けていた。彼女の視線は、埃を被ったピアノと、その鍵盤に触れる響の指の間を行き来していた。


「莉子さん、弾いてごらん。」響はピアノを指差した。


 莉子は躊躇したが、響の静かな促しに、ゆっくりと椅子に座った。彼女の指が、恐る恐る鍵盤に触れる。ぎこちない、バラバラの音が響いた。


「違う。もっと、自由に。君が感じたことを、そのまま音にしてみるんだ。」響は優しく促す。


「でも…どうすれば…。」莉子の声は自信なさげだった。


 響は、再びピアノに座り、目を閉じた。そして、ゆっくりと鍵盤に指を置く。最初は静かな、波のようなアルペジオ。やがて、そこに力強いメロディが加わり、嵐の海を思わせる激しい和音が響き渡った。それは、響がかつて耳にした、盲目の漁師の即興演奏を彷彿とさせた。彼の演奏には、技術を超えた魂の叫びのようなものが込められていた。


「聴こえるかい?この音は、楽譜にはない。この海の音、風の音、そして、この町の歴史。全てが音になって、僕の中に流れ込んでくるんだ。」響は、演奏しながら莉子に語りかける。「君の音は、君自身の内側にある。それを信じて、解き放つんだ。」


 莉子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は、響の演奏を通して、初めて『音楽の真髄』に触れたような気がした。それは、完璧な演奏でも、技巧的な演奏でもなかった。ただひたすらに、その場所で、その瞬間にしか生まれない、唯一無二の『音』だった。


 響の演奏が終わると、部屋の中には深い静寂が訪れた。莉子は震える声で言った。


「先生…私、わかりました。私、まだ、諦めたくない…。」


 その日の午後、莉子は再びピアノに向かった。今度は、躊躇なく鍵盤に指を置いた。最初はぎこちなかった音が、次第に滑らかになり、彼女自身の感情を乗せたメロディを紡ぎ始めた。それは、どこかジャズの要素を含みながらも、彼女の心象風景を表現する、独創的な音だった。


 響は、その音を静かに聴いていた。彼の耳には、莉子の指が鍵盤を叩く音だけでなく、彼女の心の奥底から湧き上がる、熱い感情の波が聴こえていた。莉子は、この場所で、ついに『自分自身の音』を見つけ始めたのだ。


 夕暮れ時、二人は海辺に立っていた。茜色の空の下、波の音が優しく響く。


「先生、私、もっと強くなりたい。もっと、色々な音を、自分の中から見つけ出したいです。」莉子の声は、朝とは見違えるほど、力強かった。


 響は静かに頷いた。しかし、彼の心には、喜びと共に、ある予感が芽生えていた。莉子が見つけ始めた『音』は、彼女をどこへ導くのだろうか。そして、その道の先に、自分自身の『音』は、一体どこにあるのだろうか。潮風が、彼の髪を静かに揺らしていた。


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