盲目のピアニスト
乱世の異端児
第1話『沈黙の音色』
東京の片隅、古いアパートの一室で、朝日はいつも紗幕を隔てたようにしか見えなかった。29歳になる水瀬
響の生活は、規則正しい音のリズムで成り立っていた。朝は近所の喫茶店から漂うコーヒーの香り、昼は子供たちの賑やかな声、夜は遠くを走る電車の音。そして、その全てを包み込むように、彼の部屋からはいつもピアノの旋律が流れていた。彼は地元の小さな音楽教室で細々と講師をしており、生徒は数人。その中でも、一際熱心な生徒がいた。17歳の高校生、佐藤
莉子は、響の教えるクラシック音楽よりも、もっと自由で奔放なジャズに惹かれていた。最初は戸惑っていた響も、彼女の情熱に触れるうち、次第に新しい音楽の可能性を感じるようになっていた。莉子の演奏は荒削りだが、内に秘めたエネルギーと、感情をストレートにぶつけるような表現力があった。響は莉子に、ただ楽譜をなぞるだけではない、『自分自身の音』を見つけることの重要性を教えていた。
ある日のレッスン中、莉子がいつになく沈んだ声で言った。「先生、私、もうピアノ、辞めるかもしれません。」
響の指が、鍵盤の上でぴたりと止まった。沈黙が部屋を満たす。莉子の言葉が、彼の耳に、まるで世界の音が突然消え去ったかのように響いた。
「どうしてだい?」響は努めて冷静に尋ねた。
莉子は小さな声で、震えるように話し始めた。「私、才能ないんです。いくら練習しても、先生みたいにはなれない。もう、意味がないような気がして…。」
響はゆっくりと立ち上がり、莉子の隣に座った。彼の指が、優しく莉子の手の甲に触れる。「莉子さん。音楽に『意味がない』なんてことはない。君の音は、君だけのものだ。誰かの真似をする必要なんてないんだ。」
しかし、莉子の表情は晴れない。彼女の瞳には、諦めと絶望の色が深く刻まれているようだった。響は悟った。これは単なるスランプではない。もっと深い、彼女自身の内面に関わる問題なのだと。
その夜、響は眠れなかった。莉子の言葉が頭の中で反響する。彼の指は自然と鍵盤へと向かい、静かにメロディを奏で始めた。それは、彼がかつて耳にした、あるジャズピアニストの即興曲だった。自由で、時に不協和音を奏でながらも、深く心を揺さぶる音色。それはまるで、迷いの中にいる莉子へ語りかけるようだった。
翌日、響は莉子に電話をかけた。そして、一つの提案をする。
「莉子さん。もしよかったら、今度の週末、ある場所に行ってみないか?そこで、君の『音』が見つかるかもしれない。」
莉子は少し躊躇した後、か細い声で「はい…。」と答えた。響は、この旅が莉子にとって、そしてもしかしたら自分自身にとっても、新たな『音』を見つけるための大切な一歩になると直感していた。彼の中に、かすかな希望の光が灯り始めていた。しかし、その先に何が待ち受けているのか、盲目の彼にはまだ見えていなかった。
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