夜の侵入者

わたねべ

第1話

「カタン」


それは、本当に些細な物音だった。


午前2時13分。


寝室の壁の向こうから、決まってその時間に聞こえる、何か小さなものが倒れるような音。


――彼は夜更かしを好んだ。

街の喧騒が遠のき、虫の音や空調の音といった、あらかじめ決められたBGMだけが流れる。

世界が自分だけのものになったような静寂が、彼はたまらなく好きだった。

だが、その予定調和の静寂を切り裂くかのように響く「カタン」という音は、彼の夜の世界への最初の侵入者だった。


最初は隣人の生活音か、あるいは家の軋みだろうと、あまり気に留めることはなかった。

しかし、それはあまりにも正確すぎた。

一度や二度ではない。


毎晩、時計の針がその時間を示すと同時に、その音は決まって聞こえるのだ。

しかし、それに気が付いてから数日たったある日、違和感は不安へと変わった。


布団の中で息を潜め、午前2時13分を待つ。

「カタン」


いつもの音が鳴る。


午前2時13分8秒。

「ポタッ」


何かが倒れる音に続いて、水道から水が一滴だけ落ちる音が聞こえる。

水が滴る音も、「カタン」という音と同じように、毎日正確に、同じ時間に彼の世界へと侵入してきた。


奇妙な連鎖が始まった。

「カタン」という音が聞こえた後、決まって洗面所の蛇口から「ポタッ」と一滴、水が垂れる。

そして、その数秒後には、リビングの窓が「カタカタ」と微かに震えるのだ。

さらにその数秒後、「ギシ」と家鳴りの音が響き、玄関のドアが「ドン」と一度だけ叩かれる。


初めは錯覚だと思った。神経質になりすぎているのだと。

だが、事象はあまりにも規則的で、あまりにも正確だった。

気づけば、静寂だったはずの彼の世界は、見えない侵入者たちによって刻々と支配されていた。


午前2時13分、カタン。

午前2時13分8秒、ポタッ。

午前2時13分17秒、カタカタ。

午前2時13分26秒、ギシ。

午前2時13分40秒、ドン。

誰かに話せば、きっと頭がおかしいと思われるだろう。

あるいは疲れて精神が参っているのだと、優しく諭されるだろう。


病院に行くことなど、もってのほかだ。

この繰り返される奇妙な連鎖は確かに起こっているのだ。

その事実を話して奇異な目で見られるのは嫌だった。


しかし、その奇妙な連鎖は、確実に彼の心を蝕んでいった。


音は次第に激しさを増した。

最初の数日は「カタン」という音はそのままだったが、ある晩、それは明らかに「コトン」という、もう少し重々しい音に変わっていた。


洗面所の「ポタッ」という水滴も、まるで誰かが蛇口をひねったかのように「チョロチョロ」と数秒間流れ出し、ピタリと止まるようになった。


リビングの窓は、「カタカタ」から「ガタガタ」と、より強く揺れるようになった。

家鳴りの「ギシ」という音も、「ギッ、ギシ……」と、家全体がゆっくりと確実に軋むような音に変わっていった。

そして、玄関のドアを叩く「ドン」という音は、「ドンッ」と、怒りをぶつけるような重く鈍い音に変わった。


静かで彼だけのものだった夜は、乱暴な物音たちによって平穏を奪われていった。


彼は眠れなくなった。

目をつぶれば、暗闇の中でそれらの音が反響し、脳裏に焼き付いた。

食事も喉を通らない。日中の仕事も手につかず、些細なミスを連発した。

同僚の視線が、どこか訝しんでいるように感じられた。


さらに数週間が過ぎると、不安は恐怖へと変わり始めた。


「コトン」は、今や「ガタン!」と、壁の向こうで何かが床に叩きつけられるような、鈍く、しかし確実に質量を感じさせる衝撃音になった。

洗面所からは「チョロチョロ」どころではない、「ダァーッ!」と、シンクを叩きつけるかのような水音が聞こえ、それが不気味なほど突然ピタリと止まる。

リビングの窓は、「ガタガタ」どころか「ガタガタガタガタッ!」と、台風を思わせるような、全身が震えるほどの激しい振動になった。

「ギッ、ギシ……」と呻いていた家鳴りは、「ギギギィ!」と、家全体が悲鳴を上げているかのように耳をつんざく甲高い音に変わっていた。

そして、玄関のドアを叩く「ドンッ」という音は、「ダァンッ!」と、まるで誰かが乱暴に、蹴りつけたかのように力強く乱暴な音になった。


彼はその場に蹲り、耳を塞いだ。

心臓は早鐘を打ち、呼吸は乱れ、全身から冷たい汗が噴き出す。

不安は、既に抗いがたい恐怖へと姿を変えていた。


彼はそれが実際に起こっている事象であると認識していた。

しかし、彼にはそれを打ち明ける勇気がなかった。

自分だけが、この奇妙な現象に囚われているのだと、誰にも理解されないだろうと、そう思い込んでいた。


彼はもはや、現実とそうでないものの区別がつかなくなっていた。

日に日に痩せ衰え、その顔色は土気色に変わっていった。

目に光はなく、虚ろな視線で一点を見つめることが増えた。


ある夜、彼は自室の隅で、膝を抱えて震えていた。

日付は、彼の最後の記述が残された日だった。


午前2時13分。


彼は、もはやその音を待つことをやめていた。


むしろ、音は彼の意志とは無関係に、彼の意識そのものに直接響くようになっていた。


「ガタン...!」

壁の向こうから、何か巨大なものが動くような音が聞こえた。


「ダァーッ...!」

私を恐怖させるためだけに流れる水の音が聞こえた。


「ガタガタガタガタガタガタッ……!」

風がないのに激しく揺れる窓の音が聞こえた。


「ギギギギィ……!」

明らかに何かが動き回っているような、激しい家鳴りの音が聞こえた


「ダンッダンッダンッダンッダンッダンッ……!」

部屋の中へ入ろうと、扉を激しく打ち付ける音が聞こえた。


彼は、最後の力を振り絞るように、耳をふさぎ体を丸めた。

次第に、彼の呼吸は浅くなり、微かな呻き声が漏れた。


数日後、異臭に気づいた大家が、彼の部屋のドアを開けた。

そこには、変わり果てた彼の姿があった。


だが、部屋に異常はなかった。

重たいものが倒れたようなへこみや傷はなく、洗面所の蛇口は固く閉ざされ、窓ガラスはぴたりと閉まっていた。

家鳴りの原因となるような歪みもなく、玄関のドアも強く叩かれたような擦り傷もない。

彼の部屋は、彼がそこで経験したであろう狂気とは無縁の、ただ静かで、ありふれた一部屋だった。


彼の部屋に残された日記だけが、彼が最後に見た世界を語っていた。

『午前2時13分奴らが来る。』

『壁の向こうで声が聞こえる。俺を呼んでいる。』

『流れる水が赤い。窓の外に何かがいる。』

『ひどい家鳴りだ、もう家が崩れる。』

『ドアの前に奴らが来ている。』


それは、果たして彼の精神が作り出した幻想だったのか。それとも、この部屋に確かに存在した、不可解な何かの痕跡だったのか。

部屋の静寂だけが、その問いに答えず、彼の世界への侵入者の痕跡を消し去ったかのように佇んでいた。


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夜の侵入者 わたねべ @watanebe

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