かけ、さもなくば死。
強迫的な気持ちにさせられる。もう指を止めてはいけないのだとさえ思ってしまう。
……あの明滅する赤色を目にしたときから。
「まずいまずいまずいだろ、流石に倫理観のカケラくらい持ち合わせてくれよほんとにたのむからよ」
こぼれた言葉すら無意識の産物だ。言葉を生み出そうと躍起になる脳に対して、指先というものは力不足にもほどがあった。結果としてその引き算のように吐息に愚痴が混じりこむ。
そんな愚痴すらこぼさず余さず拾うやつも、目の前にいた。
「嫌だなぁ、親愛なる大作家、東雲勇吾のための特設カンヅメ会場だよ? まるで倫理観のかけらも無いみたいな言われ方をするのはひどく心外だとも」
長い黒髪をいじりながら楽しそうに話す顔見知りの女性がひとり。
その横には緊張と微笑みと……いやな心酔が同居したような見ず知らずの他人がひとりと言い換えられる。
返す言葉を探すも、上手く言葉にならずに霧散する。打鍵音は止まらない、というか、止められない。休まず打ち続けなければならない。嫌なことだ。こんなに差し迫った状況ばかりだと心がすり減ってしまう。身も心も、締め切り前の作家みたいだ。
「何を考えてるかわからないけれど、君はきっと締め切り前の作家だよ」
「締め切りの設定がおかしいんじゃないですか、だいたい、この前〆切上げたばかりじゃないですか」
「締め切りを一つ上げたくらいで音をあげられても困るってもんだよ。多産が必要なのさ。今の時代は大量のコンテンツに溢れている。この中で生き抜くのなんて至難の業さ。君ほどの才能があろうとも、書かなければ相手にされなくなるのは遠い日の話じゃあない」
「しってます。そんなこと。そんなこととっくのとうに知っているんです。でもですよ」
「なんだい?」
「毎日が〆切なのはほどがあるってもんじゃあないですか」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって、大層たいへんなことですよ」
「なに、できるぶんしか頼んでいないさ。そこの線引きはしっかりとする。これでもこちらは仕事なんでな」
「あなたは編集でしょう。だからまあ百歩譲って仕事量の調整とかまで口を出すのはわかります」
わかるもんか。もっと自由だろ。これならまるで、私が私のために仕事をしているんじゃなく、編集という上司のもと仕事をさせられるみたいじゃないか。
そのくせ給与体系は安心一切なしのフリーランス。
時間がフリーではないというのになにがフリーか。
まるで牢獄みたいなこんな部屋に閉じ込められて、労働時間をぎりぎりまで使役される。
36協定もフリーランス新法もあったもんじゃあないのだ。
この録出梨出版という出版兵器にとっては。
出版社の数は星ほどあれど、ここほど心がない処は無いと思う。
無いと言って間違いない。
それを裏付けるのが、目の前の惨状一歩手前だ。
彼らが開発した……というか、マッドサイエンティストにして編集者の悴霊がひとりで開発したのが、明滅する赤い装置だった。
その名も、 ティピカル心臓。
天才的な外科医でもある彼女の片腕がいて初めて成り立つ戦法ではあるけれど、
これは作家にとって絶大な効力を発揮する。
しゃべり続けている最中も、やめられないほどに打鍵音が鳴り響く空間を作れるのだ。
このティピカル心臓はそういう効果を持つ。
外から電気信号が供給されている時間分だけ、この心臓は心臓のように動作する。
そして外科医は簡単に心臓を盗む。
やつはとんでもないものを盗んでいきました、なんて言わんばかりの速度で、心臓の摘出からティピカル心臓の埋め込みまで、朝飯前の顔を洗っている時間の、そのわずかさんぶんのいちぐらいで解決してしまうのだ。
全く以て才能の無駄遣い極まりない。極まりないが、いいのだろう。どうせ趣味だと言ってのけているような人たちだ。
好きな本が好きなだけ出せる環境を望んだ変人たちの出版社。
金はある。時間もある。書かせたい作家がいる。
なら最大限のスポンサーになり、かつ、その作家のすべての努力の結晶を拝受しよう。
それ以外の障害はすべて、排除しよう。
そういう思想が彼らを支えている。
これはそういう話だ。
「それにしても、さすがに駄目だと思いますよ、倫理観というものをもう少しうたがったほうがいい」
「倫理観かい? 私に求めるのかい?」
「少なくともぼくの本を読んでこういう生き様になろうと決めたのだとしたら、僕は筆を折る気概がありますよ」
「それはこまるなあ。私は君にたくさんの物語を書いてほしくて君を雇い入れたんだ」
「雇い入れた? オレは雇われちゃあないですが」
「おっと、まだだったね、失敬失敬。君が準備できさえすれば私はいつだって君の支えになると誓おう。君の衣食住からすべての時間を管理して、最大限素敵な物語を生み出し足跡が遺せるように準備しよう、とずうっと言っているのに断っているのはきみじゃあないか。なんだい、君はロマンチストなのかい? 告白は男から行うべきだとか思っているようなあたまでっかちなのかい? 受け入れるだけの度量をもちなよ」
「ていのいいようにいうんじゃあねえ、それはロマンチスト以前に奴隷契約にも似た何かじゃあねえか」
「なんだ、まだそんなことをいっているのかい。いいかい? 君の生み出す文章芸術の前にはすべての命が奴隷なんだ。すべての心が奴隷なんだ。いまさらそんなことでうじうじ悩んでいたって仕方がないじゃあないか」
「今でさえ、こんなことをしているってやつに、これ以上ナニカささげられるもんかよ」
「 ? 全く以てわからないね、君はずっと楽しくしゃべりながら書いているじゃあないか。できればもう少しだけ書くスピードの方に注力してほしいものだけれど、私も鬼じゃあない。それ以上は求めはしない。」
これ以上!
馬鹿なことを言われているようだった。馬鹿にしているのかと思うほどだ。いまだってぎりぎりのぎりを走り続けているっていうのに、全速力のさらにその先へ、みたいな脳まで筋肉先生の進化版みたいなことを言うのは、もうどうしようもない。
本当にどうしようもない。
「求めはしないから、ぜひ続けてほしい」
「いわれなくとも」
「従順で助かるよ」
「従順にならずにいられるかってんだ」
「いやはや、こわいねえ。もう少し人相をやわらかくしたらどうだい。ファンの前なんだし、ね?」
そういって話を振られたのは、今まで黙っていた、独りの他人だった。
「いえ、私は楽しいです。あこがれの先生がこんな感じで作品を作っているなんていうのも新鮮で」
彼女はこの空間にわずかに残った理性の塊のようだった。でも、こんな思考になる時点で毒され終わっている。
「そうかいそうかい、ならよかったよ、志願してもらっただけあるってもんだ。命ある限りぜひ楽しんで。」
編集者は不穏なことを言う。意味深なだけならよかった。ふざけているだけならよかった。
でも、そうじゃあないからぼくはずっと打鍵音と一緒に生きているんだ。
「ね、作品が時間通りに出来上がるか、君が死ぬか、そのどちらかだなんて、作者たる東雲君には選べないんだから」
「くそが・・・オレ以外を使って誘導するのはさすがになしだろ」
「なんだ、別に強制はしていないんだよ」
「はい、私は私の意志でここにいます。志願しました」
「私がSNSで募っただけだ。最新作をまじかで見ないか、一緒にあこがれの作家の近くで、作家のモチベーション管理をする仕事をしないかと。」
「ええ、ありがたい話でした。もちろん、ちょっとはびっくりしました。
心臓を取り出して機械の心臓を埋め込むなんて。
そとからの、特別なキーボードからの一定の打鍵がなければ、すぐに活動を停止してしまう心臓だなんて。
でも、私は気づいたんです。
私は、貴方の作品に救われた。
貴方の作品があって、読んで、生きようと思った。
だから、この命を次の作品につなげられるなら悪くないかなって」
「大馬鹿者だ……」
「どうした、君が育てた君のための読者だ。誇りに思うべきところだろう」
「だいたいにおいて、編集者の言葉は信じないようにしているけれど、今のはさすがに嘘まみれの言葉すぎるよ悴さん。」
「そうかい?」
「そうだろ、大体、僕の話を読んでそう思うっていうのが、僕には信じられない」
命をささげてもいい物語なんて、一つだって書いてこなかった。
命なんてどうやったってつなぐべきものなんだって、信じ続けてきた。
少なからず作品にだってその経路が組み込まれているはずだし、そう信じていたい。
「でも、私は救われたんです。生きる意味がそこにあったんです。
だから不思議じゃないんですよ、私が命をもらって、その命で次の作品が出来上がって、 その作品が誰かの命を救うならソレはソレで素敵だと思ったから参加したんです。
この命がけの作品作成に」
「大馬鹿者だよほんとうに」
「だというなら、ぜひ完成させてください」
大馬鹿者で、御しきれないファンだ。
でも、こんな脅迫に数日来付け狙われて切り離せない僕自身も、大馬鹿者だった。こんな〆切を得てようやく書き上げられるような僕自身も、どうしようもない大馬鹿者だった。
結論として、作品は予定通り完成した。というか、命がかかっている状況でできませんでしたなんて言えるはずもなく、完成という土俵を無理やりに拡大することで完成したというていにしている。
こんなもの編集者たる悴は認めたがらないけれど、でも仕事は仕事だ。時間をかけたものと追い詰められたものの味は違うのは仕方ない。
が、締め切りは再度訪れる。
今日の指定された缶詰部屋に向かえば、少女が一人いた。
変わらない手口、明滅する赤色。
今日も始まるのか、と周りを見渡せば……
彼女一人しかいなかった。
悴は不在。
いつもなら、手綱を握るように、スタートラインとゴールラインの審判のように彼女がいるのに、それがいないで生贄のようなファン一人だけというのも不思議だった。
とはいえ、何もせずにはいられず。
さりとて無視して打鍵音だけ響かせるのも気が引けて、
打ち込みながらも話しかけるほかない。
「こんにちは、ぼくは作家の東雲、君は悴にいわれてきたのかな?」
できる限りの社交性を引っ張り出して、口にした。
「……東雲さん、存じ上げませんが、初めまして。悴って誰です? そして、私は、だれです?」
赤いランプは、異常事態に無情にも明滅し続けていた。
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