第33話 褒美

ピザを食べ終えた多崎司は、まだ温かいコーヒーを手に、フーフーと息を吹きかけると、湯気が空気中に舞い散った。


二口飲むと、体がぽかぽかと温まり、早起きの眠気は一気に吹き飛んだ。


星野花見もコーヒーを一口飲むと、魅力的な唇が潤いを帯びた。彼女は続けてトリュフパンを手に取り、待ちきれないように小さく一口かじると、目を細めてゆっくりと噛みしめた。


頭の上のアホ毛がぴょこぴょこと跳ねて、とても可愛い。


朝の風が林間を吹き抜け、新緑の香りを運んでくる。耳には途切れ途切れの鳥のさえずりが、調子の外れたメロディーを奏でていた。


多崎司は彼女の小さな鼻筋を見つめ、この優美なカーブはまるで鞭のようなしなやかさがあり、非常に繊細で美しいと思った。彼は手を伸ばしてつまんでみようかと思い、その考えに自分で驚き、なぜか笑い出した。


「多崎君……」星野花見は突然、首を傾げて彼の方を見て、瞳をキラキラと輝かせた。「本当に美味しいわ!」


「えっと……ハハ……美味しくて良かった……」


どんなに美味しくても、どうせ俺は食べられないんだろ?


「うふふ、その表情、面白いわね」星野花見はしばらく笑ってから、とても「気前よく」パンを5分の1ちぎって差し出した。「味見してみて」


多崎司は苦笑いしながらそれを受け取り、口に入れて何回か噛みしめた。確かにとても美味しかった。トリュフの汁がパンに染み込んで香りが濃厚で、表面はカリッと焼けており、噛むたびに豊かな食感が楽しめた。


一口食べただけで分かった。普段彼が食べているものとは違い、今はまだ彼には手が届かない高級品だ。


「そういえば、パイがいくつか残っているけど、いる?」


「いや、いいです……後でランニングするし」


「わかった」星野花見は眉を曲げて、嬉しそうに言った。「じゃあ、これは私が全部食べちゃおう」


多崎司は忠告した。「お腹いっぱいになってから走ると、消化に悪いですよ」


「お腹いっぱい?まさか、こんなに少ししか食べてないのに」


これが「少し」だと?


多崎司は、きついトレーニングウェアに包まれた彼女の細い腰を眺め、わけもなく嫉妬心が湧いた。こんなに食べても太らない女性は、まさか神様の隠し子ではないだろうか?


持ってきた食べ物をすべて平らげた後、二人はゴミを片付け、いつものように人工池の周りをゆっくりと走り始めた。


太陽はすでに新宿の高層ビル群の中ほどまで昇り、緑を映すガラスの壁がキラキラと輝き、新鮮なカシの木の葉が風に揺れていた。


この時の光はすでに夏の気配を帯びており、すれ違う人々は皆、上着を脱いでいた。肩にかけていたり、腕に抱えていたり。


星野花見も薄手のショールのような上着を脱いで、腹部に結んでいた。多崎司も彼女に倣い、ランニング用のジャケットを腰に結びつけた。二人は日向ぼっこをしている老夫婦のそばを走り抜けた。


その老夫婦は満ち足りた表情で、日差しを浴びながらおしゃべりを楽しんでいるようだった。


土曜日の朝の暖かい日差しに包まれ、誰もがとても幸せそうに見えた。


自分と先生も含めて。


花壇を曲がると、千駄ヶ谷門はあと300メートル先にあった。


星野花見はいつものように熱く言った。「自分が世界チャンピオンだと想像して、スパートよ、少年!」


多崎司は呼吸と足取りを整え、ゆっくりと目を閉じた。そして、力強く足を踏み出した。


頭の中に鮮明な映像が浮かび上がった。人であふれる屋外スタジアムにいる自分が、歯を食いしばり、力強い足取りでゴールラインへと向かっている。


300メートル。


200メートル。


100メートル。


胸がゴールテープを切り、スタジアムの数万人の観客が一斉に歓声を上げ、地鳴りのような大歓声が巻き起こった。


「多崎、チャンピオン!」


「チャンピオン、多崎!」


【ピン】


【体力3→4】


目を開けると、風は穏やかで、日差しは暖かかった。


「ハハ……そうこなくっちゃ」星野花見が隣で笑い、満足そうに言った。「すごい進歩よ、多崎君」


多崎司は言葉が出ず、ただ下を向いて息を切らしていた。


しばらくして、彼は顔を上げて昇り始めた太陽を仰ぎ、嬉しそうに笑った。オフィスビルの隙間から差し込む光が彼の顔をまっすぐに照らし、顎についた汗がキラキラと輝いている。


星野花見はその汗をしばらく見つめ、無意識のうちに多崎司の喉仏に目をやった。彼の顔から反射される太陽の光が少し眩しかったのか、彼女は思わず目を細めた。


彼女は不意に夏目漱石が『吾輩は猫である』に書いた一文を思い出した。


【もし春風がいつもこんな平凡な顔ばかりを吹き抜けるとしたら、きっと春風も退屈に感じるだろう。】


夏目先生の筆法で目の前の少年を形容するなら、原文を少し変える必要があるだろうか。


【もし太陽がいつもこんな清潔で美しい顔ばかりを照らすとしたら、きっと日差しの時間ももっと長くなるだろう。】


そう考えて、彼女は無意識のうちに呟いた。「本当にきれい……」


「先生、何か言いましたか?」


「何も言ってないわよ」星野花見は首を振り、そして背伸びをした。太陽の光が彼女のしなやかな体に降り注ぎ、その優美な曲線に沿って光がきらめき、胸を高鳴らせる。


多崎司は思わず目を細め、呟いた。「本当にきれい……」


「今、何て言った?」


「何も言ってないですよ」多崎司は首を振った。


二人は視線を合わせ、同時に笑って言った。「ちゃんと聞こえてたわよ(聞こえてましたよ)」


「ハハ……」


ドスッ!


「痛っ……」


星野花見は威嚇するように拳を振り、「次も先生をからかったら、手加減しないわよ」と言った。


多崎司は口角を引きつらせ、腹を押さえながら心の中で抗議した。先生が「年上の女性と若い男性」を考えるのは許されて、俺が「幼い男の子と年上の女性」を考えるのは許されないってのか?


新宿御苑を出て、二人は賑やかな新宿大通りを並んで歩いた。気温は太陽が高くなるにつれて上昇し、すれ違う女性たちのかなりの数が、もう肩を出すTシャツやノースリーブのタンクトップに着替えていた。初夏の強い日差しの下で、彼女たちの髪や肌は眩い光を放っていた。


多崎司は先生の後ろに、およそ50センチの距離を保ってついて行った。


もちろん、横に並んで歩くこともできた。しかし、彼女の後ろ姿の曲線を見たいのかもしれないし、まだ言いたいことを口に出せないのかもしれない。だから、前に出ようとすると、いつも足がぎこちなくなるのだ。


そうして、多崎司は彼女の後ろ姿を見つめ続けた。ポニーテールに結ばれた黒い長い髪、そして日差しで少しピンク色になった小さな耳。


星野花見は時折振り返って一言二言尋ねた。多崎司が答えられることもあれば、どう答えていいか分からないことも、聞き取れないこともあった。しかし、彼女は答えを求めているわけではないようで、ただ自分の言いたいことを口にすると、また前を向いて歩き続けた。


ああ……まあいいか。この天気は散歩にぴったりだと、多崎司は思い、しばらく目的もなく歩くことにした。


地面に敷かれた小田急線の線路を通り過ぎると、「カンカンカン」という警報音が鳴り、遮断機が下りた。


電車が通り過ぎるのを待つ間、多崎司は線路の奥を眺めた。両側には密集した家屋が立ち並び、レンガの壁からは緑のツタやススキが顔を出している。


視線を戻すと、彼は意外なことに、小さな庭にまだ片付けられていない鯉のぼりが立っているのを見つけた。今は風がなく、黒、赤、青の三色の鯉のぼりは、だらしなくポールに垂れ下がっていた。


日本の5月5日はこどもの日(端午の節句)で、男の子がいる家庭では、この日に鯉のぼりを揚げて、神様に子供の健やかな成長を祈願する。


黒は父、赤は母、青は男の子を象徴し、青い鯉のぼりの数が男の子の人数を表す。


多崎司の記憶では、最後に誰かが彼のために鯉のぼりを揚げてくれたのは、5歳の時だった。それ以来、毎年の5月5日は、彼とは何の関係もなくなっていた。


少し鼻の奥がツンとするのを感じ、多崎司は鼻をこすりながら、その三色の鯉のぼりを見つめた。きっとそこには、幸せな三人家族が住んでいるに違いない、と思った。


「今日はここまでね。私……」星野花見は髪を結びながら振り返って言ったが、多崎司の視線が一点を見つめて動かないのを見て、彼女もそちらに目を向けた。


風が吹き、鯉のぼりが風になびいた。


そして、「先に帰るわ」という言葉は、そのまま発せられることはなかった。


小田急線の列車が後ろを猛スピードで通り過ぎていく。風圧で黒い長い髪が巻き上げられ、数本の髪の毛が多崎司の顔に当たった。


彼は我に返り、先生の方を見た。


星野花見はにっこりと微笑んだ。「先生の家に来なさい。ご褒美を約束したんだから、それを反故にするわけにはいかないでしょ?」

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