第32話 星野花見は本当に可愛い子だ

家路につく黄色の電車はひっそりとしており、沈黙した車内には疲労の匂いが漂っていた。多崎司は再び空白になった入力欄を見つめてぼんやりとし、車内に冷たいアナウンスが響くまでそうしていた。


「新宿、新宿です」

「お乗り換えのお客様は、順にお降りください」


新宿駅東口を出ると、歌舞伎町は相変わらずの賑わいを見せていた。赤と青を基調としたネオンライトの中、きらきらと輝く光の粒子が漂っている。よく見ると、霧のような細い雨が降り始めていた。


「無料案内所」と書かれた巨大な広告スクリーンが降り注ぐ雨粒を照らし、遠くの高層ビルが反射する明かりと相まって、より一層物悲しい雰囲気を醸し出している。


多崎司は傘を広げ、家へと続く細い路地に入った。


数百メートル先の華やかさとは対照的に、ここは忘れ去られた場所のようだった。濡れた地面はゴミだらけで、壁の排気パイプからは白い蒸気が立ち込めている。剥き出しになった電線ボックスからは時折ネズミが顔を出し、隣の換気扇は「ヴーヴー」と音を立てていた。


頭上から物が落ちてこないかと心配になり、多崎司はできるだけ壁に沿って歩いた。


「早くしろ、ここでグズグズするな」

「いや……あの……」


少し前方に、ノースリーブのシャツを着た少女がうつむいていた。金髪の男とリーゼントの男が、彼女の行く手を塞いでいた。


「なあ、金を出さないってんなら……」


多崎司が通り過ぎようとすると、少女は助けを求めるように彼を見た。


彼は足を止め、金髪の男とリーゼントの男をちらりと見て言った。「出世したいなら、そこの歌舞伎町で勝負してこい。子供をいじめるなんて、大したことじゃないぞ」


そう言って、彼はさりげなく振り返り、階段を上っていった。


雨は静かに降り続いていた。先ほどまで威勢のよかったリーゼントの男は、一転してへつらうような笑みを浮かべ、少女に媚びを売るように言った。「川越の姐さん、こいつです……前にみかじめ料を取りに行ったとき、ボコボコにされた奴です」


川越里美は眉をひそめて少し考えたが、彼らの話には耳を傾けず、路地を出ながら携帯電話を取り出して電話をかけた。


「もしもし……二小姐(お嬢様)、確認できました」

「私たちが集めた資料は、どうも正確ではないようです。少なくとも、彼は噂に聞くような臆病者ではないみたいです」


金髪の男は頭を掻き、わけが分からず言った。「兄貴、二小姐の家はあんなに金持ちなのに、どうして同級生のちっぽけな金なんかにこだわるんだ?わざわざ人をやってまで調べさせるとは」


「バシッ」とリーゼントの男が金髪の男の頭を叩いた。「お前には分からないだろうな。大嬢様(お姉さん)は教師をやっているし、俺たちの組はいずれ二小姐に引き継がれることになっている。みかじめ料なんてのはどうでもいい。二小姐に事前に経験を積ませることが目的なんだ。分かったか?」


「よく分かりません……」


「だからお前は一生下っ端なんだ。俺とは違う、俺は歌舞伎町のプリンスになる男だ!」


「そうだ、兄貴、ずっと疑問に思っていたことがあるんですが、怖くて言えなかったんです」

「何だよ、言ってみろ。俺が守ってやる」


「俺たちの組は、渋谷と新宿を支配するほどの大きな組なのに、どうして『こざくら一家』なんていう……えーっと、何て言うか……ちょっと『萌え萌え』な名前なんですか?」


「それか……組長夫人の名前が『こざくら』だからだ」


「組長は組長夫人が本当に好きだったんですね」


「違うな。組長はあの名前に大反対だったんだ。ただ、組長の家にはこんな家訓があってな。『もし双方の意見が食い違った場合、まず一戦交え、勝った方が決定権を持つ』ってな」


「かわいそうな組長……」


「まったくだ……十年前に組長夫人が亡くなった後、組の多くの奴らが連名で組名をもっと強そうなものに変えてほしいって嘆願したんだ。そしたら……組長は妻に勝てなかったのが、娘に勝てなくなっちまった」


「十年?十年じゃ、大嬢様はまだ15歳くらいですよね……」


「だからお前は分かってないんだ。組長自身は名前を変える気なんてなかった。部下たちにうるさく言われて、わざと大嬢様に負けたんだよ。もちろん……今となっては、変えようにも変えられない。なぜなら、本当に大嬢様には勝てなくなっちまったからな」


二人は話しながら去っていき、細い路地は再び静寂に包まれた。


5月8日、土曜日。快晴だ。


多崎司はボサボサの髪のまま歯を磨きながら、明け方に見た夢を思い出していた。


雪がしんしんと降る季節、彼は上野駅で二宮詩織を北海道行きの新幹線に乗せていた。列車が動き出した途端、二宮から「もう二度と東京には戻らない」というメッセージが届く。彼はひどく悲しくなり、列車を追いかけて走り続けた。雪はますます激しく降り、やがて世界は一面の雪国になった。


列車は消え、人も消え、そこで目が覚めた。


「クチュクチュ……ペッ!」


歯磨きを終え、ジャージに着替えて家を出る。


気温は徐々に上がってきており、朝晩はまだ少し涼しいものの、日中は半袖で出歩けるほどになっていた。


新宿御苑に着くと、門の前では早起きした老人がパン屑をちぎってハトに餌をやっていた。多崎司がハトたちのそばを通り過ぎても、彼らは動じることなく朝食を食べ続けている。


人工池にかかる小さな橋を渡ると、南東から微風が吹いてきた。葉が揺れる音が足音をかき消し、ピンク色のツツジの茂みを曲がると、東屋が見えてきた。


例の女性は、湖に背を向けてベンチに座り、一心不乱に何かを食べている。


多崎司は軽く息を吐いた。少し鬱陶しかった気分が晴れた。彼はそっと近づき、後ろから声をかけた。「朝からそんなにハイカロリーなものを摂取するんですか?」


「んぐ……ゴホッ……」星野花見は驚き、どうやら喉を詰まらせたようだ。


彼女は必死に胸を叩き、口の中のチョコパイを飲み込むと、何度か息を整えた後、振り返って多崎司を恨めしそうに睨んだ。「歩く音もしないなんて、あなたは地縛霊なの?」


透き通るような美しい顔には、息を荒げた後の赤みが差しており、少し怒ったような表情で、唇をわずかに噛む仕草は、まさに艶やかそのものだ。彼女の9ポイントの魅力がこの瞬間に余すところなく発揮されていた。


「先生が食べるのに夢中だっただけですよ」多崎司はベンチに座り、二人の間に置かれた食べ物を見た。半分食べられた9インチのピザ、チョコパイとフルーツパイ、トリュフパン、そしてコーヒーが二杯ある。


彼がトリュフパンに手を伸ばすと、星野花見が「パチン」と彼の腕を叩いた。「寝坊したから、このお店のトリュフパンはこれ一つしか残ってなかったの。私の一番好きなパンだから、あげないわ」


「生徒と食べ物の取り合いをするなんて、先生としてどうなんですか?」


「美食の前には皆平等よ!」


星野花見はフンと鼻を鳴らした。わずかに上がった白い顎のラインは、何度見ても飽きないほど愛らしかった。


多崎司は彼女の顎を撫でて、くすぐってやりたい衝動を必死に抑え、震える手をチョコパイに伸ばした。


「まずはピザを食べましょう。冷めたら美味しくないわよ」


「はい」多崎司は残りの半分になったピザを手に取った。


「えっえっえっ……離して!」星野花見は慌てて、上半身を前に乗り出し、威圧的に多崎司に言った。「全部持っていかないで!」


多崎司は少し呆然とし、不思議そうに尋ねた。「ちょうど半分残ってただけじゃないんですか?」


「この残った半分を、私とあなたで半分こよ」


星野花見はそう言いながら、多崎司からピザの半分を奪い取り、きれいにさらに半分に分け、自分の方を素早く口に入れた。


**本当に可愛い人だな……**多崎司は、自分の分け前である4分の1のピザを噛みながら、ツッコミたくなるような気持ちで先生を見ていた。彼女の小さくて綺麗な顔の中で、白く完璧な頬が両側に大きく膨らんでおり、まるで皮を剥いた二つのゆで卵のように可愛らしかった。


手を伸ばして、つついてみたい……


ダメだ……自分の肋骨のために、彼女に勝てるようになるまで我慢しよう!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る