万有引力(上)
柚麻ちゃんはよくホラー映画を見ていた。
あまり怖がるでもなく、ぼんやりと眺めていた。
「どうして、ホラーなんか」
私が問うと、彼女は「なんでだろ」と首を傾げた。
テレビの中で、生首に追われながら女性が悲鳴を上げる。
「怖いのが、好きなんだと思う」
「なんで好きなんだろう」
「ううん……」
柚麻ちゃんはクッションを抱いたまま、テレビを見つめている。考えることと、テレビを見ることとを同時にできない不器用な姉。
やがて、映画のエンドロールが流れる中、柚麻ちゃんは言った。
「たぶん、怖い思いをしたいんだと思う」
「怖い、思い」
「ぜったい安全な場所で、怖い思いをしたいのかなって。恐怖しても周りを見ればいつもの家があって、いつものみんながいる。それって、安心するんだ」
「怖い思いをするから、生きてるって感じるってこと?」
「そんなおおげさなことじゃないけれど……。まあ、そんな感じなのかな?」
柚麻ちゃんも相当程度不思議な人だと思う。
結果的に、なにが変わったというのだろう。
だって、どんなに恐怖があったとしてもそれはあくまでフィクションだし、私たちの世界に入ってくるわけじゃない。それなのに、柚麻ちゃんは幻想で生を実感するという。
素直に告げると、彼女は頬を膨らませた。
「……別に、私だってよくわかんないもん」
こうなると、私はとことん彼女の世界を知りたいと思う。そして、それを私なりの思想にしたいと思う。
「数式でたとえるなら」
私は人差し指をあげた。
「-1+1って感じかな」
「……え?」
「私はてっきり、+1-1だと思ったけど」
「どういうこと?」
「んんと、どっちも答えは0だけど印象が違うじゃない。+1-1だと、あとから喪失が待ってる。でも、-1+1だと、違うじゃん。柚麻ちゃんがホラー見るのは、そういう意味なのかなって。+1が保障された状態で-1を味わうと、もっと+1を感じられるよね。生の実感……とでも言うのか」
絶対に失われないという保障の下で失われる想像をしてみる。
絶対になくならないという保障の下でなくなる想像をしてみる。
絶対に起こらないという想像の下で悲劇を想像してみる。
そうすることで、現在の尊さを知る。
柚麻ちゃんは私をじっと見つめていた。曇りのない瞳。けれどどこか自信のない瞳だ。視線を逸らすのはいつだって彼女の方だった。
「柚花は、すごいね」
そしていつもさみしげに笑う。
一度だけ、柚麻ちゃんは、絶望したことがある。
女子バスケットボール部の部長だった彼女はちょっとモテた。それで、男子バスケットボール部の部長と副部長に告白されたのだけれど、彼女はずっと迷っていた。
そして、選べなくて、選べなくて、どちらも好きになって、でも、どちらも好きになり切れなくて、そして。
「私の、せい」
男バスの部長と副部長は、幼馴染だった。私と柚麻ちゃんに比べたら全然たいした仲じゃないけれど、絆があったらしい。
「私のせいで」
その二人は、柚麻ちゃんをめぐって衝突して、ついに、破綻した。部長と副部長の関係の破綻は、部活動の破綻と同じだ。
県大会も狙えるチームだったわが校の男バスは一回戦で敗退した。
「柚麻ちゃん、学校」
「……ううん」
「そう。行ってきます」
柚麻ちゃんはそれからしばらく学校を休んだ。
「柚麻ちゃん、学校」
「……」
「行ってきます」
「柚花」
「なに?」
「私のことは、もう気にしないでいいよ。ほっといていい」
私の中で何かが崩れる音がした。
「私なんか、もう、いなくなっちゃったほうが」
気づくと、私は、彼女の頬を弾いていた。あんなに力を込めたことはないというくらいバチンと彼女の頬を打っていた。
「あ、ご、ごめん……」
謝ったのは私だった。
彼女の頬を痛めつけた掌がじんじんと痛む。
柚麻ちゃんは片手で右頬を撫でた。その頬にしずくが伝う。
「柚花……」
「ごめんね。痛かったね……」
「ぎゅって」
「え?」
「ぎゅってして……」
彼女は手を広げて、震えている。震えながら、私を待っている。ためらいがちに、その身体を引き寄せる。
柚麻ちゃんは、私の中で、大声で泣いた。耐えられずに泣いた。
母に無断で学校を休んだことなどこれまでに何度もあったけれど、誰かのために休むのは初めてだったかもしれない。
毛布にくるまった柚麻ちゃんは、壁にもたれかかって静かに泣いていた。
「私の、せい」
一周回って、またその言葉。
「柚麻ちゃんは、何が悪いと思ってる?」
「私が、優柔不断だったこと」
「でも、真剣に考えてたんでしょ」
「あたりまえだよ。でも、どうしても、選べなかった」
「だとしたら、柚麻ちゃんだけが悪いわけじゃないね」
「えっ」
柚麻ちゃんは毛布の中から潤んだ瞳を向ける。
「柚麻ちゃんの心を動かす鍵を、二人とも持ってなかったってだけでしょ。柚麻ちゃんを苦しめただけだった」
「そんなこと、ない」
「そう? でも、恋って双方向のものでしょ」
「……」
「絵も小説も一人でできるし、自分のために作れるけど、恋は違うでしょ。柚麻ちゃんだけのものじゃない。もし、誰かが悪いんだったら、恋は共犯でしかありえないのかもね」
「柚花は、いっつも難しいことばっかり言う」
柚麻ちゃんはかたつむりのように、毛布の中に戻ってしまった。
「私はもう、幸せになれない」
「幸せになっちゃいけないなんてことはない」
「人を傷つけたなら、その痛みを背負わなきゃいけない」
「一人で?」
毛布が動く。うなずいたのだろう。また、怒りが込み上げてきた。
「傲慢だよ」
かたつむりの触覚が、ひょっこり現れる。
「自分一人で解決しようなんて」
「だって!」
「さっき自分で言ってたじゃん。優柔不断だって。つい最近までそうだった人がそう簡単に行動的にはなれると思う?」
「っ……」
「もしも行動的になるのなら、することが違うよ。柚麻ちゃん。柚麻ちゃんがすることは、ほかにある」
「……じゃあ、どうすればいいの」
柚麻ちゃんは瞳だけを私に向けた。私は彼女の相方として、もともと一つの存在だった片割れとして、口を開きかけて、寸前でやめた。
一度着替えたジャージを脱ぎ捨てる。
「柚花……? なに着替えてるの」
「学校、行ってくる」
セーラー服を身にまとい、私は微笑んでみせた。
「え、ちょっと……!」
「遅刻だけど、お昼には間に合うでしょ。行ってきます」
「教えてよ! なんではぐらかそうとするの」
背後、毛布を投げ捨てて、柚麻ちゃんが叫ぶ。私はくるっと振り返る。
「もうわかってるでしょ。柚麻」
はっと息をのんだのは、呼び捨てたからだろうか。
私は彼女を見つめる。彼女も私をにらむように見上げる。
沈黙があった。言葉のいらない、生暖かい沈黙だ。
居合切りの剣士のようににらみあっていた私たち。口を開いたのは、柚麻ちゃんの方だった。
「柚花」
私はよゆうぶって、唇を上げたまま首をひねってみせる。
「五分待ってて」
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