さよならから始まる(中)

「明日、気をつけていくんだよ」

「うん。ありがと」

「忘れ物、するなよ」

「しちゃったら帰ってくるよー」

「そうだな。……じゃあな、おやすみ」

「おやすみー」

 柚花の出立を待たず早朝に出勤する父は、最後の挨拶ですら絵を描く片手間にすませた娘に苦笑いして寝室に入った。

「柚花……」

「柚麻ちゃん、あの、そこにある墨とって」

「……」

「柚麻ちゃん」

「もう、無理」

 私はうずくまった。柚花は「どうしたの?」と私の傍に駆け寄ってくる。

「私は、柚花になれない」


 同じものを見てきたはずだった。

 同じ場所で生きてきたはずだった。

 同じものを食べて、同じものを飲んで、同じ母から生まれてきた。

 私と彼女は、こんなに似ているのに。

 私と彼女は、こんなに見えている世界が違う。

 

 

 私が必死に勉強をしているとき、彼女はひたすら自分の好きな物に熱中している。

 私がバスケに熱中しているとき、彼女は明日のために眠っている。

 私がお別れの悲しみに浸っているとき、彼女はもう先の期待に胸を膨らませている。

 今だってそう。

 私はまだ彼女のそばにいたいと思っているのに、とっくに彼女は私から離れることを受け入れている。そうでしょう? 柚花。



 そんな正反対の私たちは、それでも笑いあって、おしゃべりをして、たまにはけんかをして生きてきた。正反対なのに、見えている世界が違うのに、これまでいっしょに生きてこられたのは、家族だからじゃない。双子だからじゃない。

「柚花は、ずっと、私に気を遣ってたんでしょ」

「えっ……」

「私の目線に合わせて、話してくれてたんでしょ」

 言ってしまった。

 劣等感の吐露。

 母や父、周りの人たちは一度だって私と彼女を比較したりしなかった。

 だから、うすうす気づいていても目をそらすことができた。 

 けれど、もう限界だった。

「柚花は、たくさんのことを知っているけれど、私は何も知らない……。私にわかるように、柚花は推敲してくれていたんだね」

 柚花はパーカーのひもをひっぱりながら私を見つめている。その瞳だって、私と同じはずなのに、違うのだ。見えているものが、全く違う。

 視界がぼやけて、耳鳴りがして、のどが絡んで、もう、言葉も出なかった。



「えっと」

 柚花にしては、長い時間がかかった。

 なじんだ声が耳をつつく。

「なんていうか」

 何を言うのだろう。私はうつむいたまま、言葉を待った。

「ごめん」

 がばっと音がした。顔を上げると、柚花が頭を下げていた。

「な、なにしてるの」

「だって、泣いてるから……。ごめん。柚麻ちゃん」

「や、やめて。そういうつもりじゃ」

「でも」

「いいの。私が変なこと言っちゃったのが悪いんだ。私こそごめん。ほら、絵の続きを……」

 私は必死に笑顔を作る。仮面を作るのだけはどんどんうまくなった。マスカレードに参加したら、つける顔には困らなそうなくらい。

 

 次の瞬間。


 私はソファに押し倒されていた。


「えっ! ちょっと……」

「でも柚麻ちゃん。寂しいこと言わないでよ」

「な、なにを?」

「「私に合わせてた」って。上下関係みたいじゃない」

 柚花は心底悲しそうな顔をしている。頬についた青い絵の具が涙のしずくのように見えた。

「私、柚麻ちゃんと同じものを見てきたつもり」

「で、でも! ……全然違う。柚花に見えてるものが、私には」

「あたりまえだよそんなの!」

 柚花はガッと叫ぶ。

「どんなに似てても違う人間なんだから。ていうか、柚麻ちゃんは、私にばっかりいろんなものが見えてるみたいに言うけど、そんなのこっちのセリフでもあるんだ」

「えっ……?」

「私がこんなにたくさん作品を作れたのは、柚麻ちゃんがいたからだよ。柚麻ちゃんが私の知らない世界を教えてくれてた」

「そんなことは……」

「化粧の仕方とか、服の選び方とか、部活の話とか、小説の話とか、歌の話とか、ゲームの話とか、歴史の話とか。私の嫌いだったものを、ちょっとおもしろそうだなって思わせてくれたのは柚麻ちゃんなんだよ。それがインスピレーションになってた」

「っ……」

「「私に合わせてた」なんて、悲しいこと言わないで。私は、柚麻ちゃんをあなどったことなんてない。」

 柚花は憤りを隠せない様子だった。

「私には、柚麻ちゃんが見る世界が必要なんだよ」

「柚花……」

「また泣く……えっと、あの、どうしよう……」

 柚花はおろおろと、私のお腹に乗ったままうろたえている。にじんだ瞳で、私は、唇を持ち上げた。仮面ではない笑み。どんなにすがりついても変わらないなら、言わないでおこうと思っていた。けれど、私は彼女の肩をつかんだ。

「柚花……やっぱり行ってほしくないなあ……」



 ああ、そうか。これが本音だったんだ。

 明日から、柚花は遠くの町へ行ってしまう。今更ながら胸に穴が空いたかのような喪失感に襲われる。

 けれど、劣等感の涙よりもあとからあとから溢れ出るその涙の方が、まだ優しくて温かみを感じた。

「柚麻ちゃん」

 嗚咽をこぼしながら、私は言葉をつづける。

「私も、柚花から、たくさんの世界を教えてもらったの。もっと、教えてほしかった。柚花に見えるを。行ってほしくないよ……ごめん、こんなこと」

「待って?」

 ずっと困ったように眉を寄せていた柚花が、ふと眉を開いて首をひねる。

「どうしたの?」

「環世界ってなに?」

「え?」

 気になることがあったときの柚花の癖。人差し指をあげて説明を求める。そして、それに対して私はどんなときでも答える。こんなときにまでそうなるとは思わなかった。私は涙をぬぐって「えっと」と口を開く。



 環世界は、動物たちがそれぞれの特有のしかたで世界を知覚しているという考え方だ。冷静に考えてみればそれはそうで、人間に見えている世界、猫に見えている世界、イルカに見えている世界が同じわけがない。そもそも、視覚がない生き物だっている。それぞれの生き物は特有の知覚方法を持っていて、そこに序列もない。



「ユクスキュルっていう学者が唱えた説で……」

「柚麻ちゃん」

 柚花はゆらりと立ち上がり、やおら今まで書いていたキャンバスを床に置いた。

「えっ?」

「やっぱり、柚麻ちゃんだ」

 柚花はパーカーを脱いでキャミソール姿になった。彼女は集中するとき、なぜか薄着になる。

「私の作品は、柚麻ちゃんとの会話の中で培われてた」

 彼女は、そう言うと絵筆を持ち、力強く青色を下ろした。

「柚花……?」

「もし、上下関係があったとしたら、多分逆。柚麻ちゃんが、私に与えてくれてた。私はたぶん、柚麻ちゃんに釣り合うように頑張ってた」

「いや、それは」

「やだな」

 柚花は筆をキャンバスにあてたままこちらを見た。私は、はっと息をのむ。

「私もちょっと、つらいな。行きたくなくなっちゃうや」

 頬の青い絵具の汚れに、正真正銘の涙が覆いかぶさっていた。

「あーあ。今日は徹夜だよー」

 柚花は自分が泣いていることに気づいていたのだろうか。

 午前4時。

 彼女は最後の作品を描き上げた。


「見て」

「これ……。青空に……なに? 夕焼け? と思ったらピンク……」

 彼女の絵は、極彩色だった。モンドリアンの絵のように秩序はなく、けれどめまいがするような不快感はなく。

「環世界ってこんな感じかなって」

「そういう……」

「いやぁ。いい絵が描けたー」

 ろくな説明もせず、柚花はぐったりとソファに寝転がって、ものの数秒で寝息を立て始めた。ほんとうに自由な妹だ。自由で、奔放で、私とは何もかも違う。

 でも。

 眠ってしまった柚花の髪の毛を撫でる。さらさらして、ほんのりシャンプーの香りがする。

 もう数時間で旅立ってしまう妹。

 一緒に生きてきた妹。

 違うものを見つめている妹。

 私を偽りなく大切に思ってくれている妹。

 愛おしい、かけがえのない存在。

「たまには、帰ってきてよね」

 私はささやく。柚花はよだれと寝言をこぼしただけだった。

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