第5話

帝国宰相の筆跡で記された書簡が、宮廷の朝議に持ち込まれたのは、曇天の朝だった。


「リーヴェル伯爵家より、姫殿下への縁談の申し出……だと?」


王が目を細めて読み上げると、諸侯たちは一斉にざわめいた。


リーヴェル――南方の小国ではあるが、海洋交易で莫大な富を得た豪商貴族。その嫡男は、年若くして莫大な資産を継ぎ、肥満体ではあるが寛大で温厚……というのが外交文書での評判だった。


「……悪くない話ですな。姫殿下の婚儀が進めば、帝国の安定も見込めましょう」


誰よりも早く声を上げたのは、宰相エルマンである。


「むろん、リーヴェルの求めるのは“名”でございましょう。我が国の王女を迎えることで、彼らの地位は飛躍的に上がります」


「名誉は与え、見返りに莫大な交易利権を得る。我らにとっても、悪い取り引きではあるまい」


「レグリーナが納得すればな……」


王のつぶやきは、思わず漏れた本音だった。


しかし、次の瞬間、豪奢な扉が音を立てて開かれた。


「納得できるかっつーの!!」


レグリーナ・アーシェス、帝国第一王女にして“紅蓮の姫君”の異名を持つ少女が、腰に剣を下げたまま議場へと踏み込んできた。


「わたしに太った豚と結婚しろって!? 寝言は寝てから言え!!」


宰相が顔をしかめる暇もなく、レグリーナは王の前まで進み、指を突きつけた。


「父上! わたしは結婚なんてしないって、何度言ったら――」


「レグリーナ」


低く響いた王の声に、空気が凍る。


「……席を外せ。これは国の議論だ。王女のわがままで左右されるべきではない」


「わがまま? はは、そうね……そうよね、どうせ私なんて、“国の牌”でしかないんでしょうね!」


レグリーナは皮肉な笑みを浮かべると、振り返りもせずに出て行った。


ただ、その場にひとり、彼女の一挙手一投足を黙して見つめる男がいた。


レオン。姫の護衛官であり、影にして剣。


彼はただ、無言で礼を取った。


「……王命とあらば、姫の心を宥めてみせます」


その言葉に、誰もが一瞬、安堵と不安を覚えた。


レグリーナという嵐を、果たして誰が鎮め得るのか――。



⭐︎⭐︎⭐︎


 帝国宮殿・東の迎賓殿。

 香のたかれた室内には、蒸れたような空気が漂っていた。


 椅子の上に鎮座する男の姿は、まさに圧倒的だった――あらゆる意味で。


「ほほう、これが帝国の薔薇と謳われるレグリーナ姫殿下か。なるほど、実に華奢でお可愛らしい」


 肉の層に埋もれた三重顎を震わせながら、肥満貴族、ブローディ公爵は涎を垂らすように笑った。

 年齢は五十を超えているだろうか。汗ばむ額を刺繍入りのハンカチで拭きながら、視線を上下に這わせる。


「まさに、余の花嫁に相応しい。肌も張りがありそうだ。ああ……ぜひ、今日のうちにでも儀式を――」


 その瞬間、ガタンという音が室内に響いた。


 テーブルを蹴飛ばしたのだ。

 レグリーナである。


「……二度と、その口で“肌”とか言わないでくれる?」


 金糸のような髪を揺らしながら、少女は鋭く目を細めた。


「言っておくけど、私ね。自分よりデカい豚に抱かれる趣味はないの。だいたい、何? あんた、自分のこと“余”って言った? 鏡見たことある?」


 場が凍りつく。


 使節団の者たちが青ざめ、侍女たちは顔を伏せる。


「れ、レグリーナ殿下……っ、それは少々、過激な……」


 側近の一人が慌てて宥めに入るが、レグリーナは聞く耳を持たなかった。

 むしろ、顔を紅潮させ、まるで遊戯にでも勝った子供のような笑みを浮かべていた。


「今ここでこの話、終わり。破談よ。ほら、使節団は出ていって。さっさと豚小屋に帰んなさい」


「な……な、なんという侮辱……!」


 怒鳴り声をあげようとしたブローディ公爵の言葉は、レオンの無言の視線によって封じられた。

 剣のように鋭い無言の圧が、彼の喉元を締め上げる。


「……くっ、無礼な……覚えていろ……!」


 脂汗を垂らしながら立ち上がった公爵は、使節たちを引き連れ、よろよろと退室していった。


 残されたのは、怒りを呑み込んだ家臣たちと――レグリーナの笑顔。


「ねえレオン。見た? あんな奴、冗談じゃないよね。殺意が湧いたわ、ほんと」


「姫殿下。ご自身の立場というものを、少しは――」


「うるさい。あんたまで小言言うなら、口塞いじゃうからね?」


 茶化すような声音だったが、レオンは口を噤んだ。


 レグリーナはくるりと背を向け、廊下の奥へと歩き出す。その背中を追って、レオンも黙って歩みを進める。


***


 その日の夕刻、庭園の奥で。


 夕陽に照らされた噴水の前。レグリーナは、手すりに肘をついて空を見上げていた。

 レオンが傍に立つと、彼女は小さく鼻を鳴らす。


「どうせまた、叱られるんでしょ。王の前で跪けってさ」


「……おそらく、陛下は激怒されるでしょう」


「ふーん、怒ってりゃいいじゃん。どうせ私が誰と結婚したって、国のためになるとか言ってるだけなんでしょ?」


 レオンは何も言わなかった。


 レグリーナはふっと、視線を横に向けた。夕陽を背に、その瞳はまっすぐにレオンを射抜く。


「ねえ、レオン。あんたさ、なんであの姫様に、あんなにも忠誠を誓えるの?」


 唐突な問いだった。だが、レオンは即答しなかった。


「……あの方には、“心”があります。誰よりも、人を思う力がある」


「ふうん。そういうのって、惚れてるって言うんじゃないの?」


 皮肉を込めた言葉。


 だがレオンは眉一つ動かさなかった。ただ静かに返す。


「私は、忠義に生きております」


「……そっか。つまんないやつ」


 レグリーナはくるりと身を翻し、少しだけ声を落として言った。


「でも、あんた以外に、興味ないんだけどなぁ」


 そして、歩き去っていく。その後ろ姿には、ほんの一瞬、少女らしい寂しさが宿っていた。


***


 その夜――王の間。


「レグリーナが破談を!?」


 轟く声が玉座を揺らす。国王ルドルフ三世の怒号に、家臣たちは誰も口を開けない。


「なにを考えているのだ、あの娘は……っ! あの縁談には北方の油田と、外交の安定がかかっていたのだぞ!」


 誰かが進言しようとしたその時、王は口角を吊り上げ、低く呟いた。


「……また“あの派閥”か。ふん、見え透いた妨害だ」


 王の視線の先には、沈黙を保ったままの重臣――宰相ヴァルターがいた。


(やはり、奴か……)


 王の瞳に、火が灯る。


 物語は、大きく動き始めていた。

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