第2話 飼うって、どうやんの?
黒い岩壁の奥へ、一歩──踏み出す。
靴の裏に伝わる感触が、現実のものじゃなかった。
冷たく、ぬめりがあり、岩肌のようで……けれど、人工物ではない確かな“自然さ”を含んでいた。
訓練で通されたあの実技用の空間とも違う。
空気の重さ、湿気、そして無音の静けさが、どこまでもリアルだった。
(これが……本物のダンジョン)
一本道の通路を抜けた先、小さな広場に出る。
中央にいたのは、青いスライム。
訓練で見たそれと同じサイズ、同じ揺れ方。
(試すしかない)
まずは、討伐だ。
前と同じように、短剣を構えて踏み込む。
「──はっ!」
刃が沈み、スライムがぷるんと崩れて、消えた。
──沈黙。
何も起きない。
スキルのアナウンスも、頭の反応も、ゼロ。
(……やっぱり、発動はしない)
スキルは昨日、初めて魔物を討伐した時に獲得した。
つまり、討伐は“獲得のきっかけ”であって、発動ではない。
(じゃあ……何をすればいい?)
次に試したのは、手を差し出すこと。
もう一体、奥にいたスライムに静かに近づき、手のひらを見せてしゃがむ。
反応はない。
「……こいつに話しかけたら、何か変わるか?」
声もかけてみた。でも、スライムは微動だにしない。
次は、触れてみる──
そう思って手を伸ばしかけた瞬間、スライムがぷるりと震えて後退した。
(……近づくのもダメか)
討伐、接触、呼びかけ。全部だめ。
“飼育”って、どうやって始まるんだ。
ふと、ある可能性が脳裏をよぎる。
(動物なら……まずは、エサ──とか?)
ポケットを探る。昨日、念のために買っておいたパン。
袋を開け、小さくちぎって地面に置く。
スライムとの距離は、2メートル。
……しばらく沈黙。だが──
スライムが、ぴくんと震えた。
そして、じりじりと前に出てきて──パンに吸い付いた。
《スキル《飼育(魔物)》が発動しました》
《対象個体:スライム》
《成長促進により成体は繁殖が可能となりました》
「……出た……!」
倒すでも、触れるでもない。
“与える”ことで反応したスキル。《飼育(魔物)》。
スライムはこちらをじっと見上げていた。
さっきより、ほんの少し──近くに感じた。
(ん?繁殖が……可能?)
魔物を飼うスキルで繁殖。つまりこのスライムが“もう一体”増えるってことか?
自分の目の前にいるのは、青くてぷるぷるした信頼度の高そうな個体。
さっきパンを食わせてから、ずっとこちらを見ている。
(いけるのか……?)
俺は思わず、そう声に出していた。
「……お前、いけるのか?」
その言葉に、スライムが──
ぷるん、と大きく震えた。次の瞬間、ぽんっ。
音を立てて、身体の下から、もう一体が生まれ落ちた。
小さくぷるぷると震えるそれは、まるでさっきのスライムを小型にしたような存在。
「マジで……出た……!」
震えて、ポン。魔物が“分裂”して繁殖する。 そんなバカみたいな展開が目の前で現実になっていた。
俺は慌ててポケットからパンをもうひとかけ取り出し、小スライムの前に差し出す。
すると、それは躊躇なく、ぬるりとパンに吸い付いた。
《対象個体:スライム》
《新規個体を確認/繁殖まであと6時間》
「……育てられるんだ……ちゃんと」
ぽとん、と落ちたこの命。俺の声に応えるように、親スライムと並んでこちらを見上げている。
ダンジョンの奥にいるのは、敵じゃない。
倒すだけの相手じゃない──“飼える”存在だって、確かに今わかった
スライムの分裂を見届けたあと、俺はスマホを手にしていた。
さっきのアナウンスが頭から離れない。
《新規個体を確認/繁殖まであと6時間》
(スライムが、自動で繁殖する──)
(これって、やばいスキルなんじゃ……?)
俺はその場で考えを整理しながら、スマホのメモアプリを開いた。
【飼育スキル考察】
・スライムは6時間ごとに繁殖? → 子も同じサイクルか?
・繁殖回数に限界ある? 無限増殖はさすがに無理では?
・他の魔物も飼える? スライム以外で試したい
・魔石はドロップする? 繁殖個体でも同じ?
・スライム液ってドロップアイテム? 加工品じゃないよな
・価値の高い魔物を繁殖させれば稼げるか?
・ダンジョンが広がれば牧場運営できる?
・餌やりや空間管理が自動化できたら最強では?
記録したメモを眺めながら、自然と息をのむ。
(……このスキル、ちゃんとやれば戦わずに稼げる)
魔石換金レート
• スライム:200円
• ゴブリン:500円
• オーク:1,000円
(スライムのは……まぁ安かったけど)
(でも、ゴブリン、オーク、その他──資料上では価値が全然違う)
(こいつらを飼育・繁殖できるようになれば……)
思考は止まらない。スキルで飼い、増やし、管理し、落ちたドロップを回収する。
(これ、ダンジョンじゃなくて……俺の“牧場”になる)
その可能性を確かめるため、明日はもう少し奥に進んでみよう。他の魔物がいるなら、まずは餌を試してみる。
それでだめなら、倒してみて、“繁殖個体から魔石が落ちるか”も試す。
(できること、全部やる)
俺はそう決めて、スマホの画面を閉じた。
スライムが分裂したことで、俺の手持ちは二体になった。
繁殖のサイクルは6時間。生まれたばかりの小スライムが次に“ポン”できるのは、まだ少し先だ。
「よし、お前ら──ここで待機。餌はここに置いとく」
俺は持ってきたパンをちぎり、いつもの場所に置く。二体のスライムは俺の動きに合わせて、ぷるんと小さく震えた。
「次の分裂、6時間後だろ? また頼むな」
主人の言葉が通じてるかはわからない。
でも、反応を見る限り──わかってる“ような気がする”。
俺は一人で、ダンジョンの奥へ進み始めた。
通路は相変わらず一本道だが、雰囲気が変わっていた。 天井がわずかに高くなり、空気も微妙に湿度を帯びている。
何より気配が違う。
(魔物の……気配?)
足を止め、耳を澄ます。
風もないのに、どこかから小さなうなり声のようなものが聞こえた。
そして──
「……いた」
小さな影が、岩の陰からこちらをじっと見ていた。
緑色の肌。尖った耳。獣のような爪と目つき。
ゴブリン。
(……来た。スライム以外の初めての魔物)
俺はポケットに手を伸ばしながら、そっと一歩踏み出す。
スキルの発動条件はもうわかっている。まずは──エサ。
(……こいつにも、通じるか?)
パンをちぎり、床に置く。
反応は──まだ、ない。
でも、スライムと同じように少しずつ──確かめていこう。
──目が合った。ゴブリンの目は、明確な敵意に満ちていた。スライムとは、明らかに違う。
「グギャアアッ!」
甲高い咆哮とともにゴブリンが跳ねるように突っ込んできた。
「っ……!」
反射的に後ろへ飛び退く。だが、距離が足りない。ゴブリンの爪が俺の腕をかすめ──
「がっ……!」
鋭い痛みが走る。血がにじんだ。動揺。焦り。呼吸が浅くなる。
(なんで……通じない……)
スキルを得てからずっと成功続きだった。
でも──これは違う。通じない相手。
「っ……くそ、やるしかない!」
ポケットから短剣を抜き、構える。ゴブリンはすでに間合いに入っていた。
向こうは何度も殺しを経験している目だった。
俺とは──“経験”が違う。
一撃交わすたび、俺の動きが鈍る。心臓の鼓動が耳に響き、汗が目に染みる。
(やられる……)
そう思った瞬間、足がもつれ、倒れ込む。見上げたゴブリンの影がこちらに飛びかかる。
──だが、次の瞬間。
「はぁっ!!」
短剣を突き上げるように放った。刃がゴブリンの腹に深く刺さり、叫び声とともに身体が崩れ落ちた。
数分間、俺は地面に倒れたまま動けなかった。肩で息をしながら、ようやく起き上がる。
(……魔石、ある)
ゴブリンの胸元には小さな光る核。それを拾い、そっとポケットに入れる。
だが、胸の奥には別の疑問が渦巻いていた。
(……通じなかった)
(飼育スキルは、万能じゃない。相手の状態次第──)
(敵意があるとき、空腹じゃないとき、あるいは“そもそも飼う性質じゃない魔物”──)
(じゃあそれを確かめるには?)
俺は、じっとゴブリンの残骸を見下ろした。
(“倒す”だけじゃわからない)
(生きたまま……観察しなきゃ)
「……次は生け捕りにしてみる」
このスキルの本質に、もっと近づくために。
夕飯を終えて部屋に戻ると、俺は再びPCの前に座った。
(捕獲も考えなきゃいけないけど……その前に、俺、知らなさすぎる)
あのゴブリンに襲われた時もそうだった。スライム以外は“飼える”という前提で動いてしまっていた。
(まず、繁殖についてもっとちゃんと知らないと)
検索ワードは──“魔物 飼育 繁殖”
表示されたページには、簡易的な記述や、実例報告のようなブログが散見される。
(魔物の繁殖は種族差が大きい? スライムは分裂型、ゴブリンは交配型──)
詳細なデータはあまりに少ない。
飼育スキル持ちの実体験が共有されていないことも多い。
(そもそも……繁殖を試せるほど“飼育できる”魔物って、そんなにいないのか)
その可能性を感じた瞬間、逆にゾクリと背筋が冷えた。
(俺が持ってる《飼育(魔物)》、本当に……特別なスキルなのかも)
*
次に調べたのは魔石の価値。相場は国が決めているようだな。当たり前だけど、強い魔物ほど高い。
サキュバス:2,000円(※生きてる方が価値があるとの記述あり)
この一文が、妙に頭に残った。
(……サキュバスって、倒すより生きてるほうが価値あるんだよな)
(てことは──繁殖できたら、毎日1体ずつ……いや、2体ずつ分裂してったら……)
(オレの部屋、ハーレムになるんじゃね?)
(服とか着せて……「ご主人さま♡」とか言われて……)
(ちょ、ちょっと待て! いやいや違う違う。そういうのは、あとあと。今はビジネス。うん、ビジネス優先)
(でも……もしマジで繁殖させられたら、他の奴らと差がつくどころか、“サキュバス専門ブリーダー”とか名乗れるんじゃ──)
(……いや、だから!違うってば!!)
さらに掘り下げて素材と副産物を調査する。
(スライム液:ドロップアイテム。粘着性・絶縁性が高く、魔術触媒にもなる)
つまり、魔石以外にも価値がある。“落とす”だけで手に入るなら、採取コストも少ない。
(繁殖個体が魔石や液を落とすのか……これは、明日実験だな)
最後に、法制度にも目を通しておく。
(……魔物の飼育・繁殖・売買には登録が必要。未登録は罰金または免許剥奪)
だが、その情報の多くは戦闘職や狩猟者向け。牧場運営的な飼育管理には、具体的な前例がほとんどない。
(つまり、“黙ってやってるやつがいる”か、“そもそも誰もやってない”)
(どっちにしろ──俺がうまくやれれば、唯一の生産ルートになれる)
調べるほどにスキルの可能性は深まっていく。
(知識は、力になる)
そう思って検索を閉じかけた手が、ふと止まった。
(……サキュバスの繁殖方法って、どうなってんだ?)
魔石より生体価値が高いなら、繁殖できればそれこそ──調べない理由がなかった。
(サキュバス 繁殖 条件)
検索結果のページを開いた瞬間──画面が一気に“際どく”なる。
「うわ……」
肌色率の高い図解、実体験ブログ、学術なのかエロなのか曖昧な文字列の羅列。
(……交尾でしか繁殖できない……? 本能的に発情すると自動で……?)
読み進めるうちに頭がどんどん熱くなる。
(いやいやいや! ビジネス! 商業用ブリードだって!)
(でも、もしオレの手で繁殖させられたら……サキュバスに囲まれる日常……)
(ご主人さま♡って寄ってくる……夜は添い寝……朝はモーニングキスで起床……)
「……バカか俺は!」
両手で顔を覆って深く息をつく。
(今はまだ……まだ早い。まずはスライムとゴブリンで、基本を固めろ……)
明日、また一歩踏み出すために。俺は画面を閉じた。
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