第四章 御原家釈義

(承前)建正三年(2022年) 七月二十八日(木曜日) 午後六時ごろ

 

 「青天の霹靂」という故事成語は知っていても、あくまでも喩えの世界であって、物理的にその状況が起こると考えている者はいないだろう。

 だが実際に、それは起こったのだった。

 

 結局おれたちは、バス通りをたどって、さっき乗り込んだ停留所まで戻った。十字路を南に折れ、山をめがけて歩きだす。

 しばらく平らな地面が続いた。穂積によると、この場所は昔、御原家のお屋敷があった地所だそうだ。だとすれば、相当、大きなお屋敷だったのだろう。今は雑草が繁茂しているが、空き地の範囲はかなりの広さがある。

 空き地をすぎると、目の前の丘陵に向かう登り坂になった。道はゆるやかなカーブ描きながら、上へ上へと続いている。恐ろしいことに、このころになるとおれは、穂積について行くことにすっかり疑問を持たなくなってしまっていた。

 しばらく進んでから、何気なく歩いてきた一本道をふりかえった。

 ゆるやかな傾斜とはいえ、気づけばけっこう高い位置に来ていた。人形だらけの漁師町は眼下に横たわり、その奥に夕暮れ間近の海が物憂げにのたうっている。空にはまだ、夏らしい入道雲が、でんと居座っていた。

 その何でもない、日常的な空が「一天にわかに掻き曇った」のだった。慣用句ではなく、文字通りに。

 淡いオレンジ交じりに耀く空が、あっという間にかげった。まるで部屋の照明を落としたみたく、本当に、フッと周囲がくらくなったのだ。

 おれたちは唖然となって、互いの顔を見合わせた。穂積ですら、驚きの表情を浮かべていた。誰であれ、こんな不可解な自然現象にお目にかかった経験なんてないだろう。

 次いで、おれたちを襲ったのは、耳をろうせんばかりの轟音だった。一瞬、世界が裂けたかのかと思った。群青色に落ち込んだ世界が、激しく明滅した。稲光りだと気づいたときには、天からパラパラと大粒の水滴が落ち始めていた。降雨は、あっという間に、車軸を流したような勢いになった。

 気持ちのよい潮風だったものが、台風めいた強風に早変わりした。気圧だけでなく、気温までもが急激に低下し始めた。とうてい真夏とは思えない有り様だ。おれは知らないうちに自分が、ガチガチと歯を鳴らしていることに気づいて、呆然となった。

「急ごう!」

 穂積が急いで、坂道を上りはじめる。

「引き返しましょうよ!」

 おれの正反対の主張は、却下された。〈町〉に戻るまでにおれたちは、もっとずぶ濡れになるだろう。だが戻ったところで、人形の家にタオルや暖房などがあるかどうか、分かったものではない。少なくとも、〈第八龍雄丸〉には搭載していない。悪くすると低体温症の危険が待っている。しかし、この先の館には住人がいるーー。

 やむを得ずおれも、慌てて走り出した。

 一本道を進むとおれたちは、すぐにウバメガシの木立に囲まれた。これはありがたかった。張り出した枝葉が、少しでも雨を防いでくれる。梢が、ざわざわといっせいに騒ぎたてた。その勢いは増すばかりだ。

 もはやおれたちは、全力疾走になっていた。

 道は、山裾を巻くように大きく蛇行をし始めた。林の中を縫って続いていくが、足元は舗装されていて、歩きにくさはない。整備された公園の遊歩道を散策しているようなものだ。ただ、うねうねと曲がりくねった道は見通しが悪く、カーブを曲がるまで前方になにがあるのかわからない。それに、傾斜もだんだんきつくなってきた。

 五百メートルくらいは歩いたろうか。最後に現れたのは、左右を鬱蒼とした木々に挟まれた石段だった。

 石段の足下に砂利が敷かれた駐車場があって、電動カートが二台停まっている。

 石段は、果てしなく続くかと思われた。古い階段は、蹴上けあげの段差や踏面ふみづらの奥行きがバラバラで、歩きづらい。うっかりすると、踏み外して転倒しそうになる。

 基本的にインドア人間のおれは、あっという間に顎が上がり、太ももが痛くなってきた。

 最後はハシゴを昇るような体勢で、何とか上りきった。

 最上段の先は、開けた場所だった。そこだけ森が切り払われ、上空がぽっかりと覗ける広場になっている。

 その広場を貫いて、奥に向けて石畳が延びていた。

 石畳を小走りに進んだ。 

 敷地の手前は、サッカーコートくらいの広さがあった。その向こうに異様なものが屹立していた。

 「屋敷」というから、ぼんやりと和風建築を想像していたのだが、実物は予想を裏切っていた。

 立方体にも見えるそれは、端的に形容すると「城」以外の何物でもなかった。「城」といっても、日本の城郭ではなく、中世ヨーロッパめいた石造りのそれだ。いや、黒々とした石が積み上げられた無骨極まりない外観は、「砦」といった方が伝わりやすいかもしれない。どちらにせよ、日本の片田舎の離島には、完全に場違いな建物だ。

 しかし穂積は、空き地を横切って、躊躇なくそこに向かっていった。つまりあれが、御原家の屋敷なのだろう。

 どう考えても、近づきたい雰囲気の建物ではなかった。見るからに陰気で、幽霊でも出そうな雰囲気がある。まるでゴシック小説の舞台のよう。が、そうもいっていられなくなってきた。雨足はさらに強まり、風はますます猛り狂っている。

 おれは覚悟を決めて、砦へと駆け出した。

 

 屋敷の玄関口は、正面の石壁が凹んだ窪みの中にあった。短い階段を上がった先では重々しい両開きの木の扉が閉まっていたが、穂積は鉄製のドアノッカーを容赦なくガンガンと叩いた。

 しばらくして扉が開いた。顔をのぞかせたのは、先ほどの能島さんである。穂積を認めると中に通してくれた。

 招き入れられた玄関ホールは、いわば大きな石のはこだった。

 床は左右に広がる長方形で、寄木細工の板張りだった。天井が高く、豪華というより無骨な印象のシャンデリアが吊り下げられている。巨大な鉄の車輪のような輪っかに、本物の蝋燭が灯っていた。

 石の壁面にはタペストリーがかかっていて、その合間に据え付けられた燭台にも、太い蝋燭が乗っていた。壁の高い位置で、厳めしい顔つきの肖像画が客を見下ろしている。和装で白髭はくぜんのその男性は、先々代当主の御原みはら大膳だいぜん氏だとあとで教わった。

「タオルをお持ちしましたーー」

 すぐ傍で、銀の鈴を鳴らしたような可憐な声がした。少しだけ、鼻にかかったような感じがある。

 よく見ると、能島さんの脇に、古風なメイドのお仕着せをまとった少女が、ひっそりと控えている。襟が窮屈そうな黒いワンピースに、白いエプロンという格好だ。ふっくらとした頬の、どこかいとけなさの残る顔立ちだが、たぶんおれと同い年くらいだろう。肩で切り揃えた黒髪に、白いメイドキャップが乗っている。

 彼女は抱えていたバスタオルを、穂積とおれに手渡した。能島さんが、察しよく持ってこさせたようだ。

 おれは、彼女から目を離せないでいた。

 伏し目がちだが、ビスクドールみたいな愛らしさがあり、薄暗い室内でも少女の回りだけ輝いて見えた。彼女が、スカートを摘まんで膝を軽く曲げる挨拶ーードラマでしか見たことがない膝折礼コーツィというやつーーをしてあっさり去っていくのをおれは、ポカンと見送ってしまった。

「まったく! どうなってるんだ!!」

 ドライタオルをしながら、穂積が毒づく。天候に異議を唱えても仕方ない、と普段なら思うところだが、今日ばかりは同感だった。

 嵐など来るはずがないのだ。

 おれは本業の漁師じゃないが、それでも出航前には降水確率や雷、風向きや強さなどは、必ずチェックしている。安全確保のために必須だと、親父が口を酸っぱくして言い聞かせているからだ。ここ数日は天候も不安定ではなかったし、台風にはまだ時期が早すぎる。

 尋常でない事態に巻き込まれているーー。

 おれは頭がくらくらとした。

 

 こうしておれは、御原家の館にやって来たのだが、ここでついでに、屋敷の概略を手短に述べておこうと思う。

 御原家の屋敷は、通称〈御柱みはしらかん〉と呼ばれている。

 先代当主である御原みはら冬彦ふゆひこ氏が、独仏国境に打ち捨てられていた古城を購入、移築した館で、全体が石灰岩で出来ている背の高い二層構造の城だ。

 せんにも書いたが、貴族の優雅な居館パラスというより、土豪の簡素なフォルトと表現したほうがしっくりくる武骨な建物であり、上空から見るとカタカナの「ロ」の形をしている。違う表現をするならば、四つの二階建ての四角い塔が、同じく二階建ての横長の建築物で連結されている形状と言えるだろう。

 この四辺は正確に東西南北に面しており、四辺に囲まれた真ん中は、南欧建築でいうところの中庭パティオのようになっている。ただしスペインなど本場のそれと異なり、噴水や、花壇などの植栽はない。床がタイル張りになってもいないーーらしい。どころか、ふつう中庭パティオというのは、食堂や応接室、居間などと出入り自由のオープン・スペースになっているはずなのだが、〈御柱館〉においては、中庭に向けて開かれた開口部は存在しない。らしい、と伝聞で書いたのは、実際に中庭を目にしていないためだ。

 かつては、中庭方面に向けての窓があり、出入りできる扉もあったようだ。というのも、ヨーロッパにあったとき、中庭には直方体の天守閣ベルクフリートが聳えていたからだ。

 しかし、それら内側に向けた開口部は、日本に移築した際に、すべて漆喰で塞がれてしまったという。天守閣ベルクフリートにいたっては、そもそも移築すらされなかった。つまり、今現在の御柱館の中庭は、何もないうつろな場所であり、しかも出入り不可能な閉鎖空間になっているのだ。いったい何の目的で? それはおいおい分かるだろうーーたぶん。

 

 間取りについても書いておこう。

 館の一階の間取りは、四隅の塔のうち、北西(右下)のそれが応接室、南東(左上)のが貯蔵室にあてられている。また南西(右上)と北東(左下)の塔は上階に続く螺旋階段ヴェンデルトレッペがあるだけの部屋だ。

 その他の部屋を時計回りに記せば、北の辺にはおれたちが最初に入った玄関ホールがある。ホールは両隣が控えの間に挟まれている。控えの間を抜けると、東の辺は厨房と食堂。南に移って浴室やランドリー室に使用人部屋。西の辺は音楽室と図書室が並んでいる。

 階段であがると、二階は基本的に、一辺に三部屋ずつ個室がある。部屋は、家族や訪問客に割り当てられているが、南側の辺だけは、三間続きになっていて当主の書斎兼寝室になっている。二階の四隅の塔は、南西(右上)と北東(左下)が階段スペースであり、北西(右下)の部屋は展示室ギャラリー、南東(左上)の部屋は社交室にあてられている。

 階段スペースは、元々はさらに上まで続いていた。狭間胸壁のある屋上に出ることができたのだ。ただし今は、階段が途中で塞がれている。つまり、現在、屋上に出ることはできない。

 今後必要ならば、これらの部屋の様子についても随時、描くことにしよう。

https://kakuyomu.jp/users/tatuwof/news/822139842922569056

https://kakuyomu.jp/users/tatuwof/news/822139842922619666

 

 さてもう一つ、『黒死館殺人事件』のひそみに倣うわけではないが、ついでに島に住む御原一族についても、簡単にまとめておいた方がよいだろう。《御原家釈義》とでも言えばよいか。

 御原家は、戦前は華族だった。その起源はさらに古く、都が京都や奈良にあった時代から連綿と連なっているという。

 現在は、不動産や建設業、ホテル、リゾート開発から医療、社会福祉まで、さまざまな異業種企業を傘下におさめる複合体を支配している。毬尾根島は、彼ら一族のルーツとなる場所である。現代、一家は大阪に邸宅を構えてそこに住んでいるが、この毬尾根島は、一族の故地として大事に残されている。

 以下に、穂積から受けた講釈も書いておく。

 御原家の起こりは「御原みはら海人あま」にあるという。海人あま族とは、古代に漁撈や潜水漁業や海上交易など、生活の基盤を海においていた者たちを指す言葉らしい。今の兵庫県淡路市、つまり淡路島には、古くからこの海人たちが住んでいた。有名なのは、主に北の明石海峡方面で活躍していた「野島の海人」と呼ばれた人びとと、南の鳴門海峡方面で活動した海人族「御原の海人」と呼ばれた人びとだ。この「御原の海人」が御原家の先祖である。

 『日本書紀』には、応神天皇の妃を吉備に送る船の漕ぎ手として「御原の海人」の記述があり、また仁徳紀に、朝鮮半島に派遣された「淡路の海人」たちの記述がある。いずれも当時、難波(河内)にあった王権との深い繋がりが示唆される。こうした海人族は、大王家の水軍として王権を支えたと考えられており、この「御原みはら海人あま」をルーツに持つと主張しているのが、御原家なのだった。

 無論これらは、あくまで伝承(ないし自称)であり、本当に御原家が海人族に繋がる血筋なのかは分からない。ただ彼ら自身が、一族のルーツとして古代の海人を意識していたのは確かみたいだ。

 ここで話は、一気に現代へと移る。

 戦後まもない昭和二十二年のこと、当時の御原家当主・御原みはら大膳だいぜんには、老齢になってから授かった、うら若い双子の娘たちがいた。大膳は戦前・戦中になにやらキナ臭い商いをして、今の繁栄に繋がるように家勢を盛り立てた人物だ。

 戦禍が激しくなると、御原家一家は毬尾根島に疎開したが、戦争が終わった二十二年当時でも御原家は、復興途中の大阪を横目に、雌伏の状態だったらしい。

 その御原家にーー当時の世相のご多分に漏れずーー出征していた長男の雅人が戦死したという連絡がもたらされた。その報を携えて毬尾根島にやって来たのが、復員した雅人の戦友である安東あんどう冬彦ふゆひこ氏だった。

 この混乱の時期に起こったある重大事件については、あとで詳述する機会があるかわからない。大まかに記せばそれは、島で蒸発事件が勃発したのだ。大膳の娘の双子姉妹のうち、姉が島から忽然と姿を消し、懸命な捜索活動にも関わらず発見には至らなかった。彼女は最終的には崖から転落し、海で亡くなったと考えられた。

 この事件による心労のためか、もともと患っていた大膳は病状が悪化し、あっさりとこの世を去った。

 しかし捨てる神あれば拾う神あり、一連の出来事の最中にロマンスが生まれ、安東冬彦は双子姉妹の妹と結ばれることとなった。以降、安東冬彦は御原冬彦を名乗るようになる。

 この冬彦氏が、海岸付近にあった屋敷を取り壊し、欧州から移築した〈御柱館〉を丘陵の中腹に建てたのは、昭和三十六年。さらに、〈人形の町〉を作り始めたのは、昭和四十年代に入ってからのことだった。

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飯豊イワノヒメの陰謀論 @tatuwof

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