過去の章(2) 疑惑

昭和二十二年(1947年) 十一月十三日

 

 あおいは、鉛筆を布の筆入れにしまった。

 板敷きの、小狭い茶の間だった。四角いちゃぶ台には、ノートと参考書が広げられている。

「じゃあ、今日はここまでね」

「ありがとうございました。お嬢さま」

 ヤスくんが、座布団の上で正座したまま、ペコリと頭をさげた。しゃちほこばった仕草が、微笑ましい。

 康利やすとしくんは、能島さんと和歌子さんのひとり息子で、三つ年下の小学六年生だ。

 来年から本土の新制中学へ通うことになっていて、その準備にと、青と白が交替で勉強をみている。能島さんと和歌子さんはとても恐縮していたけど、素直で明るいヤスくんの面倒をみるのは、楽しかった。ヤスくんはこっそり「ボク、本当はお医者さんになりたいんです」と打ち明けてくれた。彼は賢い子どもだ。お父さまが学費を援助すれば、実力的に夢ではないだろう。

 ヤスくんに見送られ、能島一家の住む使用人用の離れをあとにした。敷地を縫って進み、母屋に入った。

 廊下を歩いていると、バイオリンの旋律と、コロコロという白の朗らかな笑い声がしてきた。青はこころもち眉をひそめて、応接室にしている手前の広間を覗いた。

 以前はただの畳敷きの広間だったこの部屋には、今は絨毯が敷かれて洋風な応接間のようにしつらえてある。革張りのソファセットがあって、ガラス天板の低いテーブルが置かれている。バイオリンの音は、納戸から引っ張り出してきたとおぼしき古い電蓄でんちくが発しているレコードのものだった。

 ソファに腰かけているのは、ベロアのワンピースを着たしろいだ。落ち着いたチャコールグレイカラーだが、そで口にあしらわれた純白のレースが白の可憐さを引き立てている。

 部屋には白のほかに、あと三名の男性がいた。ひとりは茶色いダブルのスーツの安東冬彦だ。初めて毬尾根島を訪れたときの、うらぶれて、貧相な面影はもうない。もともとがっちりとした体つきだったのが、当時は食事もままならなくて肉が落ちていたようだ。今は見るからに栄養状態がよく、肌もツヤツヤしている。彼は父・大膳だいぜんの口利きで、御原家と取引のある大阪の商社に勤めていた。最初は簡単な雑用を任されているだけだったが、すぐに頭角をあらわして、今では一番の稼ぎ頭だそうだ。

 その安東が今回初めて連れてきたのが、小柄で肥えた日系アメリカ人フレッド・ニシカワだ。進駐軍の通訳として、父母の祖国にやって来たニシカワは、そこらにいる日本人青年と見分けがつかない。丸顔といい、ロイド眼鏡といい、古い映画で観た古川ロッパに似ている。

「あら、青ちゃん。聞いて、憲介さんったら、可笑しいのよーー」

 白が、青に気づいて屈託なく声をかけてきた。名指しされた三人めの男は、青に向けて慇懃に頭をさげた。彼のことは小さな頃から知っている。市磯いちし憲介けんすけという青年だ。

 よく似合う青い背広姿の憲介けんすけさんは、奈良にある旧家の次男坊だ。その家と御原家は古くから懇意にしており、しばしば互いの家の子どもが婚姻関係を結んでいた。憲介は、白のーーあるいは青のーー許嫁いいなづけだった。実際、両家の申し合わせは、〈双子姉妹のどちらかと結婚する〉というものだった。もっとも、憲介が二人のうちどちらを気に入っているかは、一目瞭然だったが。

 青は、礼を失しない程度に、当たり障りのないやり取りをした。そのくらいは何でもない。娘らしく、黄色い笑い声さえあげた。その気になれば青は、いくらでも社交的に振る舞うことができる。ただし、心の底から楽しんでいるかは別だった。

 他愛ない交流をそつなくすませると、青は応接間をあとにした。後ろでは、華やいだ歓声がまた弾けている。どちらかというと引っ込み思案だった白は、すっかり明るく積極的になった。妹の変化に戸惑いつつも青は、喜んでもいた。兄・雅人の戦死を知らされてからしばらくは、青も白も塞ぎ込んで食事も喉を通らないありさまだった。少しでも前向きになれるなら、それにこしたことはない。

(だってーー)

 青は自室に戻る前に、奥の座敷に寄ることにした。

「お父さま。お加減はいかがですか? 失礼いたしますよ」

 ふすまを開けると、布団に横たわる父の枕元にいった。

「ああ……」

 寝間着姿の父は不明瞭な返事をしたが、本当に返事だったのかはわからなかった。うっすらと目を開いたが、青と気づいたのかも不明だ。

 これがあの活気横溢していた御原みはら大膳だいぜんであろうか。

 眼光鋭かったまなこは落ちくぼみ、瞳はかさがかかったようにくもっている。汐風に焼けてたくましかった肌は艶を失い、カサカサに乾いている。白髪はざんばらに乱れ、幽鬼のようだった。

 意識も記憶も曖昧であり、姉妹や能島さんを認識できないときもある。

 大膳の衰えは急激であった。兄がいなくなって失意にあったのは確かだが、それにしても不可解なほどの衰弱ぶりである。最初は流行性感冒インフルエンザに罹ったようにみえた。嘔吐や下痢が出て、頭痛、吐き気、めまいなどをうったえた。やがてそれは慢性的な体調不良に移行し、筋肉が痙攣や麻痺をおこし、脈が不自然に早くなったりした。

 青はそこに、ぬぐいきれない疑惑を抱いていた。父は、何か良くないものを与えられているのではないか。端的にいえば、毒を盛られているのではないか。そう、父の症状はまるで、ルネサンス期ボルジア家の被害者のようではないか……。

 しかし、外部の人間の往来が限られている島で、毒飼いをするのは容易でない。大膳がふだん口にするものといえば日々の食事だが、これは和歌子さんと姉妹が作っている。そこに毒物を混入させるのは不可能だろう。とすれば、考えられるのは大膳が処方された薬包ではないか。

 ここまでは考えたのだが、そこから先が難しい。

 薬を処方しているのは、主治医の藤木先生だが、あの老医師に父に毒を盛る動機があるとは思えなかった。

(だとするとーー)

 青はゾクッと背筋が寒くなる。医師が本土から往診に来るとき、その送り迎えをかって出ているのは、安東冬彦だった。

 今やはっきりと青の疑惑の目は、安東に向けられていた。

 安東は、たいそう羽振りがいい。ニシカワの例でもわかるように、いつの間にか進駐軍と通じているみたいだし、吸っているタバコも、配給の『金鵄きんし』や『のぞみ』でなく、『ピース』やその他聞いたこともない外国産だった。

 敗戦後、丸二年が過ぎても物資不足は続いていた。町中には、階級章を剥いだ軍服を着ている男が、まだたくさんいる。しかし安東は、りゅうとした背広姿だ。

 彼は腰が軽く、いろいろな頼みごとを引き受けては、あっという間に解決してくれる。だから、白や能嶋さんは、いつの間にか彼を重宝しーー依存するようになっていた。

 もちろん彼に、感謝してはいた。混乱が続く戦後の世相のなか、彼の行動力がなければ、もっともっと御原家の生活は困窮していたろう。近ごろ、御原家の食糧事情は劇的に改善されていた。安東がPX(進駐軍専用の購買部)やらその他、各所から食べ物を含むさまざま物資を調達してくれているからだ。いまだ世間では毎日のように餓死者や凍死者が出ている。戦争未亡人が、あるいはかつての上流階級の奥方・令嬢ですら、食べるため家族を守るために、街角に立って身を売っている。彼がいなければ、青や白も、米兵相手の売春婦パンパンになるしかなかったろう。

 そんな、感謝こそすれ厭うなど論外な相手に、どうして疑惑の目を向けてしまったのか。

 最大の理由は、偶然にも彼の背広の内ポケットを見てしまったことによる。

 見つけたのは、何ということもない、ごく平凡な万年筆だ。しかしそれは、青にとって重大な意味を持っていた。

 万年筆は、青が雅人に送ったものだった。間違いようがない。青が注文して、軸に雅人のイニシャルを入れた物なのだから。

 どうして安東が、雅人の万年筆を持っているのか? 無論、彼は兄と同じ部隊に所属していたわけだし、兄の消息を報せてくれた人物でもある。普通に考えれば、兄が安東に譲ったととれるだろう。

 だが、そんなことあり得るだろうか。

 青は一種の羞恥から、身体がカッと熱くなった。

 何故ならば、あの万年筆には、青の下の毛が納められているからだ。それは銃弾避けとして、〈をなり〉〈妹の力〉を込めて送ったというだけのものではない。それを兄に渡したとき、二人は秘かに互いの愛をーーキョウダイの間であってはならない感情ーーを確かめあったからだ。

 そのような私的な想いの籠った品物を、他人に譲るだろうか。

 少なくとも青の知る雅人は、そんな無神経な行動をとる人間ではない。青を抱きしめながら兄は、死ぬ瞬間でも青のことを想っていたい、と語ってくれた。仮に自分が死ぬとわかっていたら、万年筆も一緒に葬って欲しいと頼んだはずだ。

 安東が万年筆を所持しているのは、何らかの不正な手段によるものではないか? さらに飛躍するならば、兄の死そのものに関与しているのでは? 妄想は止めどなく膨らんでいく。

(彼は、お父さまも狙っているのでは……)

 青の疑念は、肥大する一方だった。

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