第三章 バス

(承前)建正三年(2022年) 七月二十八日(木曜日) 午後五時半ごろ

  

 それは(少なくともおれは)ドラマとか映画でしか見たことがない、古めかしい形状のバスだった。直方体ではなく、鼻面の長い、ダックスフントめいたフロントのやつで、穂積によるとボンネットバスと呼ばれているタイプらしい。それが、ゆっくりと目の前を横切り、少し先にあるバス停で止まった。

 興味を引かれた様子で、穂積がそれに近づいていく。おれも自然に後を追った。

 バス停には、杖を突いた背中の曲がった老婆が、いまにも乗り込みそうな体勢で立っていたが、当然これも人形だった。バスは、車体をぶるぶると震わせながら停車していた。前方の降車口と、中ほどにある乗車口が開いている。

 おれは物珍しさで、バスをしみじみと眺めた。

 前部のヘッドライトは、まん丸の目玉みたいだ。サイドミラーは大きくピカピカで、フロントガラスのワイパーは吊り下げられていた。車体が低く、座席に腰かけている乗客の頭が見える。

 穂積はそんなおれを尻目に、迷いなくバスに乗り込んでいった。そして、ためらっているおれに向けて、「何してるんだい、来なよ」と呼ぶのだった。

 恐る恐るおれも、乗車口から乗り込んだ。乗車口は、床面が低く段差がない現代の仕様でなく、階段になっている。ステップをあがって、機械が吐き出した整理券を反射的に取った。

《えー、発車しまあーす》

 少し鼻にかかった、おじさんの声の車内アナウンスがした。プシューっという音とともに、前後のドアが閉じた。バスが動き出した。

「穂積さん!?」

 慌てるおれを、穂積がなだめる。

「大丈夫だよ。このバスは島内の道路を行ったり来たりしているんだ」

「本当ですか?」

「本当さ。たぶん、ね」

 何だか急に心細くなってきた。

「まあ、最悪、能島さんが迎えに来てくれるさ。それよりじっくり見物しようじゃないか」

 そう言って穂積は、車内のあちこちを眺めだした。

 運行中は移動しないほうがいいんじゃ、と思いつつも、おれもまた好奇心を刺激されていた。

 床は木の板を張ったもので、ニスのような臭いが立ち上っていた。車内は全体的に、どこもかしこも角が丸みを帯びている。車体前方に、部屋にかけるような円いアナログ時計があるのが新鮮だ。同様に、逆さまになった扇風機が天井からさがっているのも不思議に映った。何だか『千と千尋の神隠し』で、似たような物を見た気がする。

 車内の乗客は全部で五人いたが、もちろん全てが人形だ。それどころか、当然のように制服姿の運転手も人形だった。

「驚いたね」

 穂積が、嬉しそうに手を擦り合わせた。大好物を前にした、犬のようだ。

「このバスの動力はなんだろう? どうやって操作されてるのかな? おや?」

 穂積がとんきょうな声をあげた。おれを片手で招く。近づくと、降車ボタン指さして「見てごらん」と言う。

「ん?」

 顔を近づけてみる。穂積が言いたいことがわかった。確かに奇妙だ。

 小判がたの降車ボタンの下半分に、〈お降りの方はこのボタンを押してください〉と言う文言が書かれているが、普通は何もないはずの上半分に文字が書かれているのだった。

「これはーー漢字ですよね?」

「そうだね。これはーー『権』の字だ」

 穂積は隣にある降車ボタンも見る。

「こっちは違う字だ。『武』か……これは……なんて読む字かな?」

 さらにその隣を見て穂積が、首をひねる。覗いてみると、確かにあまりお見かけしたことのない字だ。それは『王へん』に〈旋回〉の『旋』を書いて、『璇』という漢字だった。

 何となく二人で手分けする形で、残りの降車ボタンの字を見て回った。

 漢字は全部で十四個あった。しかも全部違う漢字だ。つまり十四種類の漢字が、バス内に存在していることになる。 

 このとき見つけた漢字を、のちにわかった読み方と合わせて列記しておく。『権』・『武』・『せん』の他に見つけた漢字は、『天』・『破』・『開』・『廉』・『巨』・『玉』・『文』・『禄』・『揺』・『貪』・『璣』という字で、最後の漢字は『』と読むらしい。

「どうして漢字が書かれているんだ?」

 思わず口に出た疑問に、「それは……」穂積が答えかけたとき、バスが再び停車した。

「おっと。せっかくだから、今のうちに降りよう」

 穂積はさっさと動き出す。おれはまたも慌ててあとを追った。

 前方の降車口から外へ出ると、そこはやっぱりバス停で、錆びた長いベンチがあり、学生服を着た女子生徒が二人、並んで腰かけていた。

 人形につけられた動きで、二人が仲良くトークを弾ませているのがわかる。この島の人形たちは、単に造形が優れているだけでなく、取っているポーズがいちいち迫真にせまっている気がした。それは設置した人の腕前を表しているように思えるのだった。

 またもおれの心底を読んだみたく、穂積が解説する。

「ここの人形たちは、たぶん全部がマツムロ・ドールだね」

「マツムロ・ドール?」

「世界的な人形作家の、松室まつむろとおる氏が手がけた作品のことさ。松室氏本人が作品を作ることは、もうなさそうだから、これらはかなり貴重な品々だね。ひょっとしたら将来、お宝の山になるかも」

「へえ……希少な人形なんですね」

 そう言われると、ますます素晴らしい造形に思えるから、現金なものだ。

「もっとも、どこかで生きている可能性も否定できないから、わからないけどね」

「え? 亡くなられているんじゃないんですか?」

 よくない癖だが、自分の知らない範疇外の事物は、〈歴史上〉のものと思いなしてしまうところが、おれにはあった。松室亨氏とやらも、とうにぶっ故した作家と思い込んでいた。

「松室氏は、十五年前に行方がわからなくなったんだ。蒸発事件というやつさ。だから正確には、まだ存命なのか死んでいるのか、ハッキリしないのさ」

 そのとき、バスが、またクラクションを鳴らした。レトロな車体が、ゆっくりと去っていった。

 人形しか乗っていないそれを、おれはどこか薄気味悪い心持ちで見送ったのだった。

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