過去の章(1) 来訪者

昭和二十二年(1947年) 五月十五日

 

「見て! 繁三さんの船よ! きっとお兄さまが乗っていらっしゃるにちがいないわ!」

 しろいが、はしゃいだ様子で沖を指さした。

 ブラウスに濃紺のスカート姿の妹は、おかっぱ頭と相まって、いとけなく見えた。不思議なものだ。二卵性の双子として同じときに産まれたのに、タイミングがほんのちょっと遅かっただけで、やっぱり白は妹で、あおいは姉なのだった。

 静かにうねる海原に、確かに見慣れた発動船の船影があった。航跡を引いて、この毬尾根島へと向かっている。

 二人が立っているのは、島の東側にある岬のうえだ。岬は、海に向かってやや細長く突き出ていて、白と青はそこを〈カモメの口ばし〉と呼んでいた。〈カモメの口ばし〉からだと、北からーーつまり本土からやって来る船がよく見える。

「そうね、きっとそう」

 そんな風に返事をしたけれど、内心で青は、白の言葉に首肯してはいなかった。戦争のせいで、日本中で、大勢の人びとが亡くなっている。自分の身内だけ助かるなんて僥倖は、期待できそうにない。

 雅人お兄さまのもとに赤紙が届いたとき、青と白は、蒲団のなかで泣きながら抱きあって眠ったものだ。玄関を出るときのお兄さまの笑顔が、今も目の奥に焼きついている。青も白も、無理やり笑い顔を作って万歳三唱をしようとしたが、上手くはいかなかった。

 白がさらに何か言いつのったが、潮風に吹き散らされてしまい、よく聞こえなかった。春のこの季節、島にはよく雨が降る。風が強まったのはきっと、低気圧が急速に発達しはじめているからだろう。足下で、オオバコや、ハマボッスの白い花が大きく揺れている。三つ編みにした青のお下げ髪も、なびいている。

「もう帰りましょう」

 青は妹を促して、踵を返した。夕食の準備を、し始める時分だった。最近姉妹二人は、女中の和歌子さんに少しずつ料理を習っていた。いつまでも乳母日傘おんばひがさでいるわけにもいくまい。旧家の娘とはいえ、これからはもうそんな時代ではないのだ。

 イモガラの煮つけやすいとん、イナゴのつくだ煮など、同じとぼしい材料で作っても、和歌子さんのご飯は、不思議と美味しい気がする。何かコツがあるのだろう。こうした〈ちょっとした何故〉が気になってしまうのは、幼いころからの青の性分だった。

 今の時期は、船頭の繁三さんがイサキやカツオを捕ってわけてくれる。ありがたいことだ。それで、南瓜を混ぜた雑炊が定番の食卓が、あまりさびしい感じにならなくてすんだ。それとても、人によっては贅沢に映るだろう。

 献立を考えながら、柔らかい下草を踏み分ける青の頭からは、すでに船のことは薄れていた。

 

 二人は、〈カモメの口ばし〉から、下って行った。土がむき出しの狭い小径には、石ころがたくさんあって、歩きづらい。雑草が左右から飛び出て、行く手をふさいでいた。

 岬の根元で、小径を北に折れた。

 右手側は目も眩むような逆落としで、崖下はえぐれ、丸石だらけの小さな浜になっていた。この〈東の浜〉は、波が穏やかなので、小さいころは兄さまとよく水遊びに使ったものだ。

 左手側は峻険な崖が迫っていたが、青も先を行く白も馴れたものでスタスタと進んでいく。白が、可憐な声で、むかしの流行歌を口ずさんでいる。亡くなったお母さまが、よく歌っていた曲だ。

 

 君がみむねに 抱かれて聞くは

 夢の船歌ふなうた 鳥の歌

 水の蘇州の 花散る春を

 惜しむか柳が すすり泣く

 

 もの悲しい調べと歌詞が、南支派遣の旅団にいたという兄を思い起こさせ、青は、また涙ぐみそうになった。

 道草しがちな白をせかして、帰りを急いだ。

 勾配がゆるくなりだすころ、広壮な屋敷の屋根屋根が見えてきた。起伏するいらかは、今さっき眺めた海の波濤のようだ。

 御原家の屋敷は、御岳みたけさんとその麓の森を背負って建てられていた。敷地の境界には黒い焼き杉の腰板を張った白壁が、厳めしく列なっている。

 表側にはどっしりとした門構えの長屋門がそびえているが、裏側ーーつまり山側ーーの一部は、竹垣に簡素な棟門むねもんがあるだけである。姉妹は、その通用口を通って屋敷に入った。

 敷地の中は、母屋を中心に、いくつもの木造建屋が、渡り廊下や敷石でつながれている。なまこ壁の土蔵の脇を抜け、今やすっかり掘り返され、イモやカボチャの畑となった花壇の跡を通って正面玄関に回った。

 広い玄関の上がりがまちの奥には、立派な衝立ついたてがある。二人は沓脱石くつぬぎいしに丁寧に靴を揃えて上がる。長い廊下を進んで、広間を横目に台所を目指す。すると、途中で使用人頭の能島さんに声をかけられた。和歌子さんの旦那さんだ。

「白さま、青さま。御前さまがお召しにございます」

「お父様が?」

 白の顔がにわかに輝いた。

「お加減はよろしいの?」

 能島さんについて行きながら、青は訊ねた。お父様ーー御原みはら大膳だいぜんは、ここのところずっと臥せっており、奥の座敷には床がのべられたままだった。

「いえ……ただいまお客さまがおみえになっておりまして、お嬢さまがたにも同席するようにとのことです」

「お客さま? どなた?」

 白が無邪気に訊く。御原家の私有地である毬尾根島を訪ねるということは、この家に用があるということだ。青は胸騒ぎがした。

 奥の座敷は、すっきりした棹縁さおぶち天井の十畳間だが、見事な透かし彫りの欄間に囲まれていた。真ん中に木綿布団が敷かれており、大膳は、その寝床から上半身だけを起こしていた。立派な山羊鬚が、胸元に力なく垂れている。青と白は、大膳が五十過ぎてからの子どもだった。大膳はいま七十間近だが、年齢だけでなく心労で、すでに衰弱しきっていた。大膳の脇に、垢じみた軍服にゲートル姿の男が、正座で控えている。

(お兄さま? 帰っていらしたの!)

 一瞬、歓喜に沸き立った青の心は、たちまちしぼんだ。男は兄ではなく、見知らぬ人物だった。

 よく見れば、兄とはどこもかしこも違っていた。がっしりとした体躯は兄よりもずっと骨太な印象だし、くっきりした眉とワシ鼻は華奢な兄よりもずっと男性的だ。男は、挑むような眼差しを青と白に向けた。とはいえ険悪な空気ではない。それがその男の標準な目つきらしかった。

「……あおいしろい。ご挨拶しなさい。こちらは安東冬彦さんとおっしゃる方だ。大事な……雅人に関する大事な話を報せてくれたのだ……」

「お兄さま! それでは、お兄さまは?」

 不安にかられた白が、つい問いただすように安東につめよった。安東はたちまち厳しい顔つきになった。それで青も白も、男の報せの中身がわかってしまった。覚悟していたとはいえ、全身の血が下がって、足に力が入らなくなった。

御原みはら雅人まさと少尉はーー戦死なさいました。わたしは、こちらを届けるように言付かって参りました」

 男の声には張りがあり、以外に若いとしれた。お兄さまと同い年くらいだろうか。

 ボーン、ボーン、ボーンと、古風な置き時計の音が響いた。

 男が差し出したのは、青と白が武運長久を願って渡した御守りだった。青の目から、涙がこぼれた。

 春雨も、落ち始めていた。

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