第一章 毬尾根島

建正三年(2022年) 七月二十八日(木曜日) 午後三時ごろ

 

 午後三時すぎだった。

 おれは自転車をこいで、学校から港へと急いでいた。山の上の校舎から海に向かっては、ずっと下り坂だから、そんなに疲れはしないけども、約束の時間に遅れそうなので少し焦っていた。図書室が開放されていたので、昼めしを食べたあと学校に寄ったのだが、ついうっかり予定滞在時間をオーバーしてしまったのだった。

 お日さまには、まだまだ勢いがあるので、坂をブレーキかけないで下りていくと風があたって気持ちいい。

 丘陵を下りきるころには、潮がプンと匂った。嗅ぎなれているからか、どこか心が落ち着く匂いだ。

 海岸沿いに横たわる国道を越えると、そこから先が漁師町になっている。とたんに道幅が狭くなって、家がごみごみと建て込んでくる。

 ブレーキをかけて、自転車のスピードを落とした。出会い頭に、カートを押しているお年寄りと鉢合わせするのは御免だった。顔馴染みの野良猫が、周囲を睥睨しながらパトロール中だった。

 路地は縦横に走っていて見通しがきかないけど、海の方角を見分けるのは住民でなくとも簡単だ。つま先下がりに路を行けば、自然に海へ出る。

 昨日の朝、頼みごとをしてきた親父の言葉を思い出す。約束は三時半だったはずだ。

 親父は町の役場に勤めているが、同時に漁師もやっている。兼業漁師というやつだ。公務員は基本的に副業が認められていない。でも農業とか牧畜とか一部の仕事はしてかまわないらしい。「小規模かつ本業に差し支えない程度の時間と収入」の範囲内というわけだ。

 うちは死んだ爺さんが漁師だったので、漁船や網なんかは揃っているし漁業権もある。親父は爺さんのすすめで、小型船舶操縦士免許も海上特殊無線技士免許も若いころに取得していた。そんなわけで親父は、週末なんかに船を出しているのだ。

 もっとも親父にいわせれば副業というつもりではないらしい。「死んだ爺さんと話をしているつもりで漁に出ている」とは本人の弁だが、格好つけすぎていて何を言ってるのかサッパリだ。

 その親父が人づてに、沖に浮かぶ島に人を送り届けて欲しいと頼まれたのは先週のこと。漁船に乗せればいいだけと引き受けたはよいが、間の悪いことに九州にいる大叔母(爺さんの妹)が危篤になった。

 親父は昔、この大叔母に大変世話になったということで、急遽、九州に向かうことにしたのだ。そこで、たまに親父の漁を手伝っていたおれに、お鉢が回ってきた。

 親父は依頼自体を断りたかったようだが、他に頼れる船がないという依頼相手に、かなりしつこく拝み倒されたらしい。実はおれも二級小型船舶免許は持っている(十六歳から取得できる)。あまり乗り馴れてなくて自信はないけれど、行って帰ってくるくらいなら、問題はないだろう。厳密に法律に適っているかまでは知らないけど。

 自転車は路地を抜けて、コンクリートの敷かれた漁港に出た。うちの船のところに急ぐ。

 親父の船は1.9トンで、全長8.42メートル。船体の外側に浮き輪が留まっており、横腹に〈第八龍雄丸〉とある。名前を着けたのは爺さんで、〈龍雄〉は爺さんの名前。ただし〈第八〉といっても同じ船が八隻あるわけでも、今の船が八台目なわけでもない。「末広がり」の縁起を担いで〈八〉とつけただけということだった。

 その〈第八龍雄丸〉の傍には案の定、すでに客が来ていた。時刻は三時二十八分。一応は間に合ったことになる。自転車を降りて、客と相対した。

 それが穂積ほづみしのぶとおれの、初顔合わせだった。

 

 初めからおれは、待ち合わせ相手をかなり警戒していた。

 さっき書いたように、親父は自分が行けなくなって断りを入れたのに、客の方で半ば強引に引き受けさせたと聞いていたからだ。どうしても乗せてもらわなければならない、と言い張ったらしい。その強引な客というのが穂積忍だった。

 どんな強面だろうと内心ビクビクしていたのだが、初めて顔をあわせた穂積の第一印象は、予想とはかなり違っていた。

 まずもって、漁港にスーツ姿でたたずんでいるのが異様だった。しかも真夏日なのに、スリーピースだ。艶のあるネイビーのピンストライプの共布で、シャツは白、ネクタイは暗い色のペイズリー柄だった(あとで本人にバーガンディーという色だと教わった)。

 そのスーツを着ている穂積本人もまた、こちらの予想を裏切る容貌だった。

 背が高く、スラリとしたモデルみたいなスタイルの持ち主だった。無造作に田舎の漁港に立っているだけなのに、ファッション雑誌の1ページを眺めている気持ちになる。

 年齢は、二十代半ばといった辺り。色白でスッキリとした顔立ちは中性的というか女性的にすら見える。サラサラヘアーのロン毛だから、ということもあろう。もっとも全体の雰囲気を喩えるとするなら、いささかインチキ臭い英国紳士といった印象である。

大住おおすみさんーーなのかな?」

 おれを見て穂積が、よく通る澄んだ声で言った。

「そうです。遅くなってすみません。親父の代わりにおれが船を出します」

 頭を下げながらおれは、すぐに準備します、と客の荷物を持った。何やらブランド品らしいキャリーバッグだった。

 穂積は一瞬、目を細めると、何気なく、仰天する科白を吐いた。

大住おおすみ渡月とつき君か。D県立磯部高校の二年生だね。今週から夏休みかい?」

「え……なんで……?」

 心底驚いたおれは、正直ちょっと引いた。先方には〈息子〉とだけ伝えたと教えられていたのだが……。

 初歩的なことだよ、と穂積は、人差し指を振った。

「きみの持っているスポーツバッグには、校章が入っているじゃないか。外ポケットには突っ込んだままの学生証がはみ出してて、名前が読める。それにポロシャツは学校指定の物だね。胸ポケットに刺繍がある。わたしの頭にはね、全国の公立高校の制服がすべてインプットされてるんだ。D県立磯部高校の刺繍の色は、入学した年度ごとに違う。金糸で刺繍がしてあるのは、今年度の二年生だ。以上、Q.E.D.」

 おれは驚愕のあまり、口を開くことができなかった。穂積の推理力に、というよりも、公立高校の制服をすべて記憶しているというアホさ加減にだ。なんていう、能力の無駄遣いだ。

 ーーという胸のうちは表に出さずにおれは、舳先から乗り込んだ。穂積が後に続く。

 おれは船のチェックを手早く済ませた。生真面目な親父らしく、キチンと用意をしてあった。ガソリンは満タンで、船体にも異常はない。エンジンを始動させて暖機運転を開始する。その間、穂積は、甲板をうろうろしたり、マストを眺めたりしていた。

「出航できます」

 声をかけておれは、もやいを外した。お願いします、と穂積が神妙に頭を下げた。

 うなずいておれは、操舵室に入ると背の高い椅子に尻をあずけた。舵輪を軽く握るなり、心地よい緊張感に包まれた。赤の他人を乗せて操船するのは初めてだった。

 穂積が、律儀にノックしてから操舵室に入ってきた。

「じゃあ、出します」

 ゆるゆるとバックして、係留場所から離れる。ギアを前進に入れ、船を前へと進めていった。

「馴れてるねえ」

 感心した口調で穂積が言った。

 港を抜けたあたりから、スロットルレバーを操作して、エンジンの回転数を上げていった。

 エンジンは快調だった。

 波は穏やかで、〈第八龍雄丸〉は気持ちのよい夏の海原を、軽快に進んでいった。


「……〈波〉というのは、実に興味深い現象だね。いや、単なる自然現象と言っていいのか。〈波〉は周期的に変動する事象だ。周期的ということは、そこに時間が含まれ、変動するためには、空間がなくてはならない。つまり〈波〉は定義上すでに、〈時間〉と〈空間〉を内包しているのだよ……」

 港を出て五十分は経つが、隣で穂積はずっと喋り続けていた。

 これまで話題はあっちに飛びこっちに飛んでいた。最新のアイドル事情から東アジア情勢、美味しい鉄砲漬けの漬け方まで、いっかな途切れる気配がない。本当によく喋る。おれは途中から適当に相づちをうって聞き流していた。退屈だったわけじゃない。穂積は人を逸らさない男だった。おしゃべりを聞いているだけで愉快な気持ちになる。しかし操作に集中したかった。とくに途中にある別の島を通過するときはそうだった。寄港するわけではないけど、マダイの養殖場があったり、定置網のブイが浮いていたりする。素人のおれは少しだけ緊張するのだ。

「……〈時間〉とは〈宇〉、〈空間〉とは〈宙〉……なわけで、つまり〈波〉とは〈宇宙〉そのものでもあるわけだ……」

 気持ちよさげに話す声は、教室で講義をしている教師のようだ。

 その穂積がふいに口を閉じて、前方を指した。

「おお、あれが毬尾根島だね」

 行く手の波間に薄紫色の島影が現れていた。海原からにょっきりと、帽子の丸いてっぺんが突き出ているように見える。おれは海外ドラマで観た、ブラウン神父のつばの広いフェルト帽子を連想した。カトリックの聖職者が屋外で着用する〈サトゥルノ〉とか言う帽子だ。〈サトゥルノ〉とは確か、土星を意味するはずだった。

まり尾根おねじまはーー」穂積が続ける。「わたしのクライアント、御原みはら冬彦ふゆひこ氏の私有地だ。名前の由来は、あの岩かな?」

 近づくにつれハッキリわかるのだが、島には少しこんもりとした円錐形の山がある。その山の、幾重にも夏の緑が重なった中腹に、染め抜かれた模様みたく青黒い色が浮き出て見えた。そこだけ緑がなく、岩肌が露出しているのだ。言われてみれば、円を描くそれが、毬に見えなくもない。もう一つ気づいたのが、島の東側に尖った口ばしのような突き出た岬があることだった。その話をすると穂積もうなずいた。

「岩といい、岬といい、特徴的なもののある島は、漁師にとっては格好の目印になる。だから、ときにそうした岩や島そのものが、信仰の対象になることがあったみたいだね。あの岩も、ひょっとしたらイワクラだったかもしれない。いや、岬や洞窟が聖域になっている場合もありそうだ。後でクライアントに聞いてみよう……」

 穂積はなおもぶつぶつと、いろんなことをしゃべっていた。おれは、イワクラって何だろう、と心の中では思っていたが、尋ねはしなかった。答えが長くなるような気がしたからだ。

 そんなおれの胸の裡を見透かしたように、ふいに穂積がニヤリ、と左の口角を上げた。

 この後おれは、この微笑みを何度も目にすることになる。

 

 思い返せばこの時点で穂積は、おれを島に残すことを考えていたのかもしれない。いずれにしてもこうしておれたちは毬尾根島にやって来たのだった。

 ここで島の様子をまとめて記しておこう。

 毬尾根島は、港から約九.七海里(十八キロメートル)ほどの沖に浮かぶ、周囲四キロメートル程度の小さな島だ。他の島づたいならば、おれの持つ二級小型船舶免許で行ける範囲内である。かろうじて海図には載っているものの、単に「沖ノ島」とだけ記されている。なのでこちらが、正式な名前なのかもしれない。

 船で近づいたときには、海中から小高い丘がにょっきりと頭を出しているように見えた。あとで聞くと毬尾根島は、上空から見て洋梨のような形をしているらしい。北側の船着き場があるのが洋梨の底あたる場所で、南に行くにつれてすぼまっている。そして、船着き場がある北側以外の海岸線は、一部を除いて、基本的にどこもかしこも切り立った崖だった。

 船着き場が島でもっとも低く、南に向かってーーつまりに洋梨の先端に向かってーー高くなっていき、一番高い箇所は、標高が二百メートルくらいの丘陵だった。丘陵の中ほどに岩肌がむき出しの箇所があるのはすでに書いた通りだ。

 これからも順次、島の情報を追加していくことになるだろう。もちろんそれが状況を理解してもらうのに必要だからなのだが、同時に、おれが陥っている事態は結局のところ、この毬尾根島がどんな島であるか、にかかっている気がするからだ。島の様子や成り立ちを知ることで、おれの苦境もわかってくるはずだ。

 では、話の続きを急ごう。


毬尾根島の全図

https://kakuyomu.jp/users/tatuwof/news/822139842483669854

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