「影に裁かれる刻」

人一

「影に裁かれる刻」

俺は七衣、普通の大学生をやっている。

最近の楽しみは、バイト終わりの夕方いつもすれ違って、挨拶してくれるお姉さんがいるんだ。

いっつも口元を手で隠してるんだけど、それでも美人なのには変わりはない。

あの白いワンピースの似合うお姉さんと会えると思っただけで、その日のバイト頑張ろうって気になるんだよな。


そんな俺にも最近悩みがある。

「正直者は損をする」ってあるだろ?

それを実感する日々さ。

ミスを正直に報告しても怒られる、後輩を庇ったら裏で悪口を言われている。

こんなのはほんの一部だけど、こんなことが続いて正直辟易していた。

……でも!嘘をつかず、正直に生きていればいつか報われるとも言うし。

俺もそれを信じて、このまま頑張っていこうって思ってる。


「おーい、今日はもうあがっていいぞ。」

「はい、お疲れ様です!」

なんてことのないバイトが終わり帰路に着く。

しばらく歩いていると……来た来た。

あのお姉さんだ。いつものように白いワンピースを着て、こっちに向かって歩いてきてる。

『こんばんは』

「こんばんは~」

いつものように挨拶を交わす。

いや、今日は笑顔だったように見えたな。

気の所為かもだけど、その一瞬が嬉しくて帰る足取りがとても軽く感じる。

「……ふふ、明日のバイトちょっと楽しみになってきたな。」

家に着いても上機嫌のまま、その日は眠りについた。


そんな何でもない日常を送っていたとある日。

事件は起きた。

史上類を見ないほどの大寝坊をしてしまった。

身の回りのものを引っ掴み大慌てで、バイト先へ向かった。

職場の人たちは「珍しいね。大丈夫?何があったの?」と、怒ることもなく親身になって心配してくれた。

俺は……情けなかった。

こんなにも心配されているのに、当の理由は「寝坊」だなんて、とても言えなかった。

必死に頭を回してふさわしい理由を考える。

「皆さん、遅刻してごめんなさい。そして、ありがとうございます。

一緒に住んでる祖母がちょっと…倒れてしまって、病院へ付き添ってましたので、遅れてしまいました。」

皆は疑うこともなく「そうか、そうか。大変だったんだね。今日は来たばかりだけど、 もう帰りなさい。」と優しい言葉をかけてくれた。

……こんなにも、上手くいくなんて。

遅刻を誤魔化せただけでなく、バイトを実質1日サボれるなんて……。

……いや、これは、今回はたまたま上手くいっただけだ。

もう、嘘を――つかないようにしないと。

なんとも言えない気持ちになりながら、家へ帰っているとまた、白いワンピースを着たお姉さんとすれ違う。

『こんばんは』

……?まだ日が落ちるには早い時間だけど、まぁいいか。

「こんばんは」

そこからはもう何も無かった。

ただ家へ帰り悶々としながら眠りに落ちた。


あの一件から、俺は”バイト先”では、嘘をつくことはなかった。

でも……日常のちょっとした場面では、口をつくように嘘が出てきてしまう。

何気ない友達との会話でも、顔色を伺ってしまい本心ではない言葉を使うことが少しずつ増えていた。……気がする。

罪悪感を感じない相手や、気の知れた友人はやはり蔑ろにしてしまう。

「あいつなら笑って許してくれるだろう」「このくらいは面白い冗談で済むだろう」

そんな風に俺は、選んでいるのかもしれない。

 ……だって嘘をついてもバレないし、正直に言うよりも上手く事が進んでる気さえするもんな。

「嘘も方便」って便利な言葉があるし、上手いこと使えばいいだけだよな。

誰にも迷惑かけてないんだし……。

そんな風に思ってるうちに、退屈なバイトも終わり帰る時間になっていた。

「はぁ~疲れた~。お!いつものお姉さん、今日は薄灰色のワンピースか。いいね。

そうだ、今日はこっちから挨拶してみようかな。」

「こんばんは~」

いっぱいの笑顔を向けて挨拶をすると、

『……こんばんは』

返事を返してくれた刹那、周りのあらゆる音がかき消された気がした。

 ――まったくの無音。都市の喧騒も雑踏も、風に揺れる看板の音でさえも、ピタリと止んでしまった。

だがすぐに「キィィン」といった耳鳴りと共に、日常の騒がしさは帰ってきた。

「えっ?なんだ今の……」

お姉さんは、背をこちらに向けたまま振り返ることもなく歩き去っていった。

なんか不思議な感じがしたが、まあなんか疲れてんだろう。

そう思った俺は、さっさと家に帰って眠ることにした。


 以前の不思議な思い出も忘れた頃、また何でもない日々を送っていた。

「あ~今日もバイトだ~毎日バイト三昧だ~」

適当にぼやきながら、バイト先へ向かう。

 最近俺は、完全に「嘘」……いやいや、この言い方は良くないな。

本音と建前を使い分けられるようになっていた。

 実際のところは知らないが、前よりも思い通りに物事が運ぶ。人もいい感じに協力してくれるし……自分の口のうまさで、快適な思いをするのは心地がいい。

風の噂で俺は、ペテン師だの二枚舌野郎だの言われてるみたいだけど……そんなのもう考えるまでもなく、妬みや僻みだろう。

 ……もちろんバイト先で嘘をつかないってのは続けてるぜ。

俺は、約束を守れる偉い奴だからな……。


「なんか面白いことでも起きないかな。……てかバイト終わったら、お姉さんと会えるじゃんか。

最近ずっと、グレーのワンピース着てるけどマイブームなんかな。」

ぼんやりとしながら階段を下っていると、

 ――ドンッ……ガラガラガラ

なにかにぶつかったと思ったら、大きな音が聞こえてきた。

不思議に思いながら階下を覗くとそこには、

階段から落ちたのだろう、荷物にうずもれた同僚が血を流して倒れていた。

俺は、怖くなりその場から逃げてしまった。

俺がぶつかったせいで、こんなことになってしまったけど……だからといってなんて言えば、どうやって説明すればいいんだ?

震える手を必死に抑え込みながら休憩室で待っていた。

すると、階段の方が騒がしくなる。

 店長さんや他の同僚達の慌てる声が響いているが、当の俺は休憩室で縮こまっていた。

しばらくも経たないうちに、救急車が来て同僚が運ばれていった。

 とりあえずは命に別条はないらしいのだが、怪我の具合から後遺症が残ってしまう可能性が高いそうだ。

 今日の営業は取りやめになり、全員が休憩室に集められことの顛末を聞かされた。

険しい顔の店長さんがゆっくりと口を開く。

「誰かあいつが落ちた理由を知らないか?……まあ何でもいいんだ、知ってることがあれば教えてくれ……。とりあえず今日はもう店を閉めるから皆帰りなさい。」

 俺はもう、気が気じゃなかった。誰にも見られてなんかないはずだけど……

逃げたこと、助けもしなかったことがばれるのはマズい。

 かつての初めて嘘をついた日の事が鮮明にフラッシュバックする。

「どうすれば……どうすれば……俺が犯人にならないで済むんだ……」

そうだ……誰でもいい、誰かを“俺”としてあてがえばいいんだ。

確か落ちた同僚と最近喧嘩してたおっさんがいたな……。

筋書きも作りやすいし、もう……そいつでいいか。


俺は、重い足を引きずりながら、まばらに人が残る休憩室から店長さんを「話があります」と連れ出す。変に声が震えていないか、もう分からない。

「……さっきは怖くて、信じられなくて言い出せなかったんですが…最近落ちちゃった人と大喧嘩してたおじさん、いるじゃないですか……」

さっきまで疲れた顔をしていた、店長さんの表情が急激に険しくなっている。

「僕…その、押してるのを見ちゃって……」

「…………そうか。……ありがとう。」

店長さんはそれだけ言い残して、休憩室に戻っていった。

心臓が爆発しそうな勢いで跳ねているのを感じる。

詰まるような重い空気に段々と息も苦しくなっていく気がする。

……だが、これでいいんだ、いいんだ。

もう俺は、疑われることは無い。いつもの日々に戻れるんだ……。

落ち着かない気持ちでただ立ち尽くしていると休憩室から、店長さんとおっさんが怒鳴りあう声が響いてきた。

内容なんて聞かなくても分かる。だって悪いのは俺なんだし。

俺はもう、その場にいられなくなり逃げるように走って帰った。

なにか濃い色のワンピースを着たお姉さんとすれ違った気がしたけど、もう今はそれどころではない。

俺は挨拶を交わすこともせず、立ち去った。


あれから数日が経った。

おっさんは、いつの間にか職場から姿を消していた。

辞めたのか、辞めさせられたのか、はたまた全てが嫌になって自分から消えたのか――

今では、もう誰にも分からない。

俺が怪我をさせてしまった人も、復帰が難しいからと職場から去ってしまった。

この人に対する罪悪感や申し訳なさはまだ感じる。

だが、怪我こそさせてしまったが死んではいない。……その1点だけが俺を安心させる。

安堵感と共に邪な考えが顔を覗かせる。

――今回の嘘もバレなかった。

咄嗟についた嘘だったのに。

誰かが、あのおっさんが俺の代わりに「責任」をとってくれたのだ。

この事実は甘く、そして魅惑的だった。これまでについた嘘、そのどれよりもだ。

思わずに口元が緩む。慌てて取り繕おうとしたけど……誰もいないんだし、別にいいか。

「やっぱり正直に言うよりも、嘘で切り抜けた方がいいじゃんか……」

この時、もう職場では嘘をつかないルールもどうでもよくなっていた。

外と同じく、「正直者」のフリをすればいいんだ。……フリだとしてもどうせバレない。

俺の嘘はまだ、見破られたこと無いんだし。


今日も「誠実な青年」を演じきった俺は、バイト先からの帰り道にいた。

すると前からいつものお姉さんが、歩いて来るのが見えた。

相変わらず口元は隠したままだが、今日も着ている濃い紺のワンピースがよく似合っていた。

「こんばんは~」

『……こんばんは。』

普段より素っ気ない感じがしたが、お姉さんにも機嫌が悪い日があるんだろうか。

すれ違いざまに、足を止めかけたように見えたけど、きっと気のせいだよな。

……そんな事よりも明日だ。

明日は、初めてできた彼女とのデートなんだから。

お姉さんの小さな変化も気にかけず、俺はそのまま帰宅していった。


「今日は、バイト休みだし彼女と初デートできたし……いや、最高だったな!」

夏の光はまだ強く、街を昼のように照らしつけていた。

もう日が傾く時間帯なのに、空気は眩しいままだ。

「もう、すっかり夕方だけど、明日のバイトどうしよ~」

今日のことを思い浮かべながら、軽い足取りでいつもの道を帰っていた。

ふと、前髪が気になり窓ガラスの反射で直していた。

……するとその窓に、俺の背後にあのお姉さんが立っているのが映っていた。

急に背後に立って驚かせようとしたんだろうか?いやでも……反射でバレバレなんだよな。

後ろを振り返りながら言う、

「お姉さん、驚かそうったってバレバレだよ!

……それにしても、足を止めてくれたの初めてじゃない?なんか――え?」

軽口を叩きながらお姉さんの方を見るも、その姿……いや、その光景に言葉を失ってしまう。


お姉さんは、黒色のワンピースを着ていた。

確か、初めて会った時は白色のワンピースだったはず。

それで、会う度にどんどん色が変わっていくな~とは思っていたけど、気にしたことがなかった。

今日も同じだと思ってたのに、そうじゃなかった。

その黒はもう、夏の光に一切照らされていない程の深い黒、もはや飲み込まれそうな漆黒だった。

昼間の残光を拒み、立っているその場所は昏く、すっぽりと抜け落ちているようだった。

ただ黒いワンピースを着ているのではない。

 ――「闇」そのものを纏っているかのようだった。


そんなお姉さんと目が合う。

その目はひどく冷たく、そして俺の全てを見透かしているようだった。

……お姉さんはまだ何も言わない。

間に耐えられなくなって、思わず視線を足元に落とす。

お姉さんは足元まですっぽりとワンピースに覆われており、

――ついに、その足を見ることは叶わなかった。


沈黙の時がただ流れていた。

思い切ってお姉さんに声をかけようとした。

その瞬間――

口の中で「プチン」と何が弾けたような感覚がした。

急いでスマホを取り出して口の中を映す。

――舌が、無かった。

そこにあるはずの舌が無く、まるで切り取られたかのように、ぽっかりとした空白が広がっていた。


――カシャン、と乾いた音が地面に転がった。

……何がどうなっているんだ……? 理解できない。

なんでこんな事が起こったんだ? どうして俺なんだ?

悪いことなんて―――何も、してないのに。

落としたスマホのことなんて、もうどうでもよかった。

ただ頭の中は、疑問で埋め尽くされていた。

目の前にいるお姉さんは、まだ何も言わず、ただ立っていた。

言葉こそ発していないのに……いや、だからこそかもしれない。

その場に漂う威圧感に、俺は何も言うことができなかった。

けれど、思考だけは止まらなかった。


とりあえず、お姉さんに事情を説明すれば、きっと心配してくれるかもしれない。

そんな期待を胸に、空っぽの口を開けて声を振り絞って出そうとした。

――だが、声は出なかった。

どんな簡単な言葉でさえ、俺の口から出ていくことは無かった。

……もう、この状況を理解しようなんて諦めた方がいいのかもしれない。

それよりも、まとわりつくようにのしかかってきた、重い絶望に心ごと潰されてしまいそうだった。

俺はもう、ただうなだれることしかできなかった。


『……七衣さん』

思いがけず名前を呼ばれて、顔を上げる。

目の前のお姉さんは――俺の前で”初めて”口元を隠していた手を、そっと下ろした。

その動きは…優雅?いや、荘厳と言った方が正しいかもしれない。

適切な言葉も思い浮かばないまま、どうしてか涙が溢れ出ていた。

悠然と立つお姉さんは……いやもはや誰かも分からぬ彼女は、

俺に――

ただ、静かに。だが、確かに告げた。



『今の気分はどうですか?』

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「影に裁かれる刻」 人一 @hitoHito93

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