第3話 星の農場とスターグロック
焚き火の揺れる炎を見つめる君たちに、今宵もまた、黒衣の剣士の物語を語ろう。
星の光が降り注ぐ畑、戦乱の気配から遠く離れた静かな夜。そこで剣を振るい、酒を味わった男の話だ。彼の名はアルディオ。
帝国の影、黒曜隊の元隊士にして、今はただ剣と魔法で糧を得る放浪の傭兵。誰の旗も掲げず、ただ己の刃と知恵を頼りに旅を続ける男が、甘い酒と小さな勝利を手に入れた夜の物語。さあ、杯を手に、耳を傾けてくれ。
大陸のどこか、帝国の内乱が血と鉄で大地を染める中、星の光が夜ごと降り注ぐ畑があった。
戦の噂など遠い夢物語のように、農夫たちが夜空を仰ぎながら育てる甘い作物。
それがスターシュガー、星の光を浴びて甘みを増す不思議なサトウキビだ。帝国が栄華を誇った時代から珍重され、今も貴族や富商の舌を喜ばせる高級品。そのキャラバンの護衛として、黒衣の剣士アルディオは雇われた。
農場は帝国の辺境、緩やかな丘陵に広がっていた。夜気が冷たく、甘く焦げたようなサトウキビの匂いが漂う。
夜露に濡れた土の湿り気、遠くでカエルの鳴き声が響き、空には薄い雲を透かして星々が瞬く。サトウキビの葉が風に揺れ、まるで星光を浴する波のようにざわめく。
葉の先端に溜まった露が星を映し、地面に小さな光の粒を落とす。
アルディオの黒革の鎧は闇に溶け、擦り切れた表面には無数の傷が刻まれていた。背に背負った大剣は、帝国の鍛冶師が魔力を込めて鍛えたもので、月光を鈍く反射する。その重さは肩に食い込み、戦いの記憶を呼び起こす。鎧の縫い目には古い血の痕が残り、彼の過去を静かに物語っていた。
彼はかつて帝国の対モンスター部隊「黒曜隊」に属していた。魔獣や敵国の魔術師を葬り、皇帝直属の影として暗殺や諜報を担った。
黒曜隊の任務は冷酷だった。ある夜、敵国の魔術師を討つため、雷虫を放ち村を焼き尽くした記憶が蘇る。炎と叫び声、仲間が血に倒れる姿。皇帝の崩御と部隊の内紛に嫌気が差し、彼は全てを捨てて放浪の傭兵となった。帝国の追っ手が今も彼を追うかもしれないが、アルディオには関係なかった。剣と魔法で生きる。それが彼の唯一の掟だ。
農場の納屋の前で待っていた農場主は、顔に深い皺を刻んだ壮年の男、ガルドだった。目尻の疲れと憂いは、長年の農作業だけでなく、終わらぬ脅威によるものだと一目で知れた。
ガルドの服は粗末だが清潔で、手には土とサトウキビの汁が染みついていた。妻と二人の子が納屋の陰で不安げに彼を見守る。妻の目は赤く、子供たちは母の裙にしがみついていた。
「ジャイアントラットが住み着いてな。駆除しても、巣ごと潰さねえ限り次々湧いてくる」
とガルドは言った。声には苛立ちよりも諦めが混じり、納品を待つ商人に顔向けできない苦悩が滲む。
「このままじゃ、家族を養えねえ。街の市場にも出せねえ。子供たちが飢える」
と彼は吐露した。妻が小さく頷き、子供たちは怯えた目で剣士を見た。
アルディオは小さく息を吐き、農場の奥を指さした。
「今いるのは俺が倒す。ラットの習性と数、駆除の方法を教える代わりに――スターグロックを一本、分けてくれ」
スターグロック。星の光で熟したスターシュガーを蒸留した琥珀色のラム酒。旅人や傭兵の間で語り継がれる逸品だ。
黒曜隊時代、戦場での僅かな休息に酒を愛飲したアルディオにとって、スターグロックは旅の重さを忘れさせる誘惑だった。かつての任務で、仲間と分けた安酒の味が脳裏をよぎる。
笑い声が響いたあの夜、仲間はまだ生きていた。今はただ一人、酒を求めるのは過去を呼び戻すためかもしれない。
ガルドは一瞬驚いた顔をし、すぐに笑った。
「ああ、あんたの腕前を拝めるなら安いもんだ。だが、失敗したらこの農場は終わりだぞ。子供たちの未来もな」
アルディオは無言で頷き、納屋の影に消えた。星空の下、サトウキビが風に揺れる音が、戦いの前の静寂を満たした。
ガルドの妻が小さな祈りを呟き、子供たちが怯えた目でそれを見つめる。アルディオはそんな視線を感じながら、戦いの準備を始めた。彼は納屋の隅で道具を広げ、雷虫の卵や錬金術の小瓶を点検した。黒曜隊の訓練が、彼の指を正確に動かす。
夜半、アルディオは畑の影を縫うように歩いた。腐葉土の匂いに混じって、ジャイアントラットの毛と獣脂の臭いが鼻を突く。サトウキビの葉が擦れる音、遠くのカエルの鳴き声、夜風が運ぶ湿った空気。
星光が葉の露に反射し、畑を銀色の光で満たす。黒曜隊で鍛えた夜目は、闇の中で猫の如く光を拾う。
彼の黒衣は夜に溶け、足音は草を踏む音すら立てなかった。手には細い革袋と、琥珀色の卵が入った小瓶。雷虫の卵だ。稲妻を纏う昆虫で、卵を潰されると激昂し、敵を族滅するまで止まらない。
黒曜隊時代、魔獣の群れを壊滅させるために使った危険な道具だが、アルディオには計算済みの賭けだった。
巣穴は畑の端、倒れたサトウキビの陰に隠れていた。土が盛り上がり、悪臭が漂う。
地面にはラットの爪痕や食い荒らされたサトウキビの残骸が散らばり、農場の苦境を物語る。
アルディオは慎重に近づき、雷虫の卵を一つ取り出した。琥珀色の殻は星光を反射し、まるで小さな星のようだ。
彼は一瞬、卵を手に持ったまま星空を見上げた。かつての任務で、雷虫を放った夜、仲間が笑いながら「星が落ちてきたみたいだ」と冗談を言った。
その仲間はもういない。アルディオは目を閉じ、記憶を振り払う。腐臭の漂う穴に向かって、静かに卵を投げつける。
「――頼むぜ」
卵が地面に触れ、潰れた途端、草の影から雷虫が唸るように集まり始めた。羽音は低く、しかし数百匹が一斉に動く音は、地鳴りのような不気味な響きを帯びる。
雷光が畑を照らし、稲妻がサトウキビの葉を焦がす。巣穴からはジャイアントラットの断末魔と焦げた毛皮の匂いが立ち上った。
ラットの鋭い爪が土を掻き、赤い目が恐怖に揺れる。
牙を剥き、逃げ惑う姿が闇に浮かぶが、雷虫の電撃は容赦なく、巣全体を焼き尽くしていく。
土が震え、地面が崩れる音が夜気を裂く。ラットの一匹が巣から飛び出し、アルディオに向かってくるが、彼は短剣を一閃。血が地面を濡らし、ラットは動かなくなった。
アルディオは冷ややかな目でその様を見届けた。雷虫の狂気は計算済みだったが、そのまま放っておけば農場まで襲いかねない。
彼は懐から錬金術の小瓶を取り出し、巣の入り口に投げ込む。霧のように広がった薬液は雷虫の羽を溶かし、数分も経たぬうちに地面に沈黙をもたらした。
焦げた匂いと静寂だけが残り、星空が再び輝きを取り戻した。アルディオは剣を抜き、巣の残骸を掘り返して確認した。ラットの死体が転がり、雷虫の残骸が散らばる。全てが終わったことを確かめ、彼は剣を鞘に収めた。
アルディオは畑の端に立ち、サトウキビを一本手に取った。星光を浴した葉は、まるで命を持っているかのように輝く。甘い香りが鼻をくすぐり、戦場の血と鉄の記憶を一瞬遠ざける。
黒曜隊時代、彼は雷虫を何度も使った。ある夜、敵国の要塞を落とすため、雷虫を放ち炎に包まれた村を見下ろした。
勝利の酒を仲間と分けたが、その夜の笑顔は裏切りと戦乱で消えた。
今はただ一人、スターグロックを求めるのは、かつての仲間との記憶を呼び戻すためかもしれない。
剣を手にした理由をとうに失っても、戦いの匂いは彼を離さない。この夜、畑を満たしたのは血の匂いではなく、ほんのり甘いサトウキビの香りだった。それが、アルディオにとっての小さな救いだった。
彼は星空を見上げた。星の光は冷たく、しかしどこか優しく、サトウキビの葉を銀色に染める。こんな夜が、戦いを忘れさせる唯一の瞬間だった。
だが、アルディオは知っていた。明日の朝、また戦乱の噂が届くだろう。帝国の旗を掲げる誰かが、どこかで兵を集めているかもしれない。それでも、今夜はただ、農場の平和と一本の酒のために戦った。ガルドの家族が眠る納屋を振り返り、彼は小さく息を吐いた。
夜明け前、農場の納屋で小さな宴が開かれた。粗末な木のテーブルには、焼きたての黒パン、乾燥肉、香草で味付けした豆の煮込みが並ぶ。
ガルドの妻が用意した料理からは、温かな湯気とローズマリーの香りが漂う。子供たちは怯えながらも、剣士に興味津々の視線を向ける。
「ラット、全部死んだ?」
と長男が小さな声で尋ねた。
「もう来ねえ」
アルディオは頷いてと短く答えた。子供の目に安堵が広がる。
そして、約束の品――淡い星光を映す琥珀色の酒瓶。スターグロックだ。星の夜を閉じ込めたような香り、滑らかで甘い後味。
アルディオは暖炉の側に腰を下ろし、一口含んだ。鼻腔に広がる甘い熱、舌に残る微かなスパイスの刺激。旅の苦さを一瞬忘れさせる味だった。
「助かったよ、黒衣の旦那。あんたのおかげで商人に顔向けできる。子供たちも飢えずに済む」
ガルドは笑顔で言った。
妻が「もう夜に怯えなくていい」と呟き、涙を拭う。子供たちが小さく笑い、長女が「剣士さん、強いね」と言う。アルディオは無言で頷き、子供の頭を軽く撫でた。その仕草に、家族は驚きつつも微笑んだ。
アルディオは軽く杯を掲げて応えた。
「酒が美味けりゃ、それで十分だ」
これが、黒衣のアルディオが星光の畑で雷虫を使い、甘き酒と静かな夜を手に入れた物語だ。血に染まらぬ剣もあれば、戦乱に関わらぬ旅もある。
されどそれすらも、剣士の短き夜話のひとつにすぎぬ。次に彼がどこを歩くのか、それを知る者は誰もいない。さあ、旅人よ、杯を空にしてくれ。
次の物語は、また別の夜に語ろう。
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