第2話 少年と森の怪物


 焚き火の揺れる炎を見つめる君たちに、今宵もまた、黒衣の剣士の物語を語ろう。薪が弾ける音と、夜風の囁きが耳をくすぐるこの時、遠い帝国の喧騒から離れた小さな村で、名もなき英雄が戦った話を。男の名はアルディオ。


 帝国の影、黒曜隊の元隊士にして、今はただ剣と魔法で糧を得る放浪の傭兵。誰の旗も掲げず、ただ己の刃を信じ、旅の果てに小さな希望を灯した男の物語だ。さあ、杯を手に、耳を傾けてくれ。




 夜の酒場は、まるで生き物のような熱気と喧騒に満ちていた。


 焦げた肉の香ばしい匂い、麦酒の酸っぱい香り、煤けた松明の煙が混ざり合い、板張りの床は客の足音で軋む。


 酒壺がテーブルで揺れ、誰かの笑い声や粗野な歌が響き合い、薄暗い光が木の柱に長い影を投げかける。壁には古びた猟師の弓や干した獣の皮が飾られ、酒場の歴史を物語っていた。


 酒場の隅、粗末な卓に腰かけた男がいた。黒髪を肩まで伸ばし、黒い革鎧に身を包んだその姿は、まるで闇が形を成したよう。


 擦り切れた鎧には無数の傷が刻まれ、戦いの記憶を静かに語る。


 傍らには背丈を超える大剣が立てかけられ、古びた鞘に収まった刃は、帝国の鍛冶師が魔力を込めて鍛えたものだ。静かな威圧感を放ち、酒場の喧騒を寄せ付けない。


 男の名はアルディオ。かつて帝国の対モンスター部隊「黒曜隊」に属し、魔獣や敵国の魔術師を葬った戦士だった。


 黒曜隊は皇帝直属の影の部隊で、帝国全土で発生するモンスター案件に特化した特殊部隊だったが、皇帝の崩御と部隊の内紛に嫌気が差し、彼は全てを捨てて放浪の道を選んだ。


 かつての仲間は彼を裏切り者と呼び、帝国の追っ手が今も彼を追うかもしれない。それでも、アルディオはただの傭兵として生きていた。剣と魔法で日々の糧を得る流れ者だ。


 杯を口に運ぶ彼の瞳は、夜の獣のように鋭く、しかし今はただ、麦酒の泡を見つめるように静かだった。


 黒曜隊時代、血と炎の戦場で磨かれた感覚は、今も彼の内に息づく。酒場の喧騒は遠い。過去の記憶──仲間を失った夜、魔獣の咆哮、裏切りの刃──が心の奥でざわめくが、彼はそれを押し殺し、ただ黙って酒を飲んだ。


 酒場の客たちは彼を一瞥し、好奇と警戒の入り混じった視線を投げかけたが、アルディオには関係なかった。人の視線は、戦場での敵意に比べれば無意味なものだ。


 そこへ、荒々しく扡が叩きつけられるように開いた。冷たい夜風が吹き込み、土埃と血の匂いを運ぶ。転がるように飛び込んできたのは、汗と埃にまみれた少年だった。


 歳は十五かそこら、乱れた髪、血走った目、震える足元。掠れた声で叫ぶ。


「お願いだ……誰か……妹を助けてくれ!」


 酒場の客たちが一斉に視線を向ける。少年の震える手、膝から崩れ落ちる姿に、一瞬、静寂が落ちた。


 アルディオは卓に肘をつけたまま、視線だけを少年へ向けた。


 少年は必死に言葉を紡ぐ。


「村に怪物が出たんだ……生贄を……妹を差し出さないと、村ごと滅ぼすって……」


 村の名は「ハルウェル」、帝国の辺境にひっそりと佇む寒村だ。


 内乱に翻弄される領主は動かず、村人たちは諦めの色を浮かべているという。


 少年の声は恐怖と絶望に震え、酒場の空気を重くした。彼の服は泥と血で汚れ、膝には擦り傷が赤く滲んでいた。必死に助けを求める姿は、酒場の粗野な空気とは対照的だった。



 少年が差し出した布袋には、わずかな銅貨が数枚。傭兵たちは最初、興味を示したが、中身を見て鼻で笑った。

「この程度の銅貨で命張れってのか」

「冗談じゃねえ。生贄の方が安上がりだな」


 酒場に嘲笑が響く。


 屈強な男たちが背を向け、酒と笑い声に戻る。少年は血の気のない顔で、ただ立ち尽くすしかなかった。


「……受けよう」


 その中で、ただ一つ、乾いた声が響いた。


 少年が振り返ると、黒衣の男が立ち上がっていた。酒場の客たちがざわめく。


「そんな端金で命売るのかよ」


屈強な傭兵が鼻を鳴らして吐き捨てる。


「こんなご時世、そんなバカが一人ぐらいいたっていいだろ」


 アルディオは微かに肩を揺らし、まるで自分を嘲るように呟いた。


 彼は杯を置き、腰の鞘に差した短剣を確かめ、大剣を静かに背負い直した。革鎧が小さく軋み、剣の重さが肩に食い込む。


 少年の目には、わずかな希望が宿った。酒場の喧騒が再び戻る中、アルディオは少年を連れて夜の闇へと消えた。扡をくぐる瞬間、冷たい風が彼の黒髪を揺らし、酒場の明かりが背後に遠ざかった。




 月は厚い雲に隠れ、夜道には馬車の音もない。少年に案内され、アルディオは街道を外れた獣道を歩いた。夜露が草の香りを深め、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。


 木々の間を抜ける風が梢を揺らし、遠くで夜鳥の鳴き声が響く。少年は恐怖で言葉を失いそうになりながらも、妹の話を途切れ途切れに語った。


 名はルナ、十にも満たない少女。村が怪物に脅され、生贄を求められたとき、彼女は泣きもせず「私が行けば済むなら」と呟いたという。少年の声は震え、妹への愛と無力感が滲んでいた。


 アルディオは顔を変えずに歩を進めたが、少年の言葉は彼の心の奥に小さな波紋を広げた。黒曜隊時代、彼は無数の命を奪い、救うことなど考えなかった。


 任務はただ、敵を排除し、生き延びること。だが、ルナの小さな決意は、かつて彼が忘れた何か──純粋な勇気、犠牲の精神──を思い出させた。


 闇に沈む森の梢を見上げると、昔討伐した魔物の匂いが記憶の奥で蘇る。血と腐臭、咆哮と断末魔。


 モンスターを狩る者の呼吸は、こうした夜の空気の中で研ぎ澄まされていく。彼の足音は静かで、まるで獣道そのものと溶け合うようだった。




 ハルウェル村は、木と土でできた小さな集落だった。粗末な家々が寄り合い、屋根には苔が生え、夜風に揺れる松明がわずかな光を投げかける。


 村人たちは暗い瞳で剣士を見た。疲れ果て、絶望に沈む顔。だが、少年が「この人が助けてくれる」と言うと、わずかに安堵の色が広がった。


 長老の家は村で最も大きく、しかし壁にはひびが入り、窓枠は朽ちかけていた。


 長老は震える声で語った。怪物はオーガ。子供を喰らい、魔力を蓄える忌まわしい魔物で、森の奥深くに潜む。村人たちは生贄でオーガを鎮める以外に道はないと信じ、希望を失っていた。


 アルディオは生贄となるはずだったルナと会った。褐色の髪を編んだ小さな少女は、恐怖に震えながらも、兄を気遣う言葉を先に口にした。


「怖くないわけじゃないけど……兄さんが泣いてる方がもっと怖いから……」


 彼女の胸元には、母の形見だという青い布のリボンが結ばれていた。色褪せた布は、少女の小さな勇気を象徴しているようだった。


 アルディオはしゃがみ込み、少女と目線を合わせ、静かに言った。


「そのリボンを貸してくれ」


 ルナは戸惑いながらもリボンを差し出し、彼はそれを懐にしまった。少女の瞳には、恐怖と信頼が交錯していた。彼女の小さな手は冷たく、しかしその握りには力が宿っていた。




 村の古い蔵に入り、アルディオは地面に錬金術の符を刻んだ。黒曜隊で学んだ術は、戦場での生存を助けたものだ。


 袋から細工道具と薬瓶を取り出し、木と藁で作った人形にルナのリボンを結びつける。


 魔力を帯びた符を埋め込み、人形に生きた気配を持たせた。オーガの嗅覚と魔眼を欺くための、わずかな匂いと命の痕跡。


 リボンにはルナの体温が残り、微かな花の香りが漂う。最後に、爆薬を詰めた小さな壺を人形の胴に仕込む。黒曜隊時代、魔獣を仕留めるために使った技だ。危険だが、効果は確実だった。


「俺が明日をプレゼントしてやる」


 作業を終え、アルディオは不安そうに作業を盗み見ていたルナの頭を撫で、囁くように言った。


 少女は目を丸くし、小さく「うん」と頷いた。その声には、わずかな希望が宿っていた。


 蔵の外では、村人たちが不安げに囁き合う声が聞こえる。アルディオは彼らを無視し、剣を点検した。大剣の刃には微かな魔力の輝きがあり、戦いの準備は整っていた。




 夜が深まる頃、村外れの祠に供物箱が据えられ、その中に人形が収められた。アルディオは息を潜め、箱の奥に身を隠す。土と木の匂い、冷たい夜気の中、遠くでフクロウが鳴く。


 剣士の心は静かだったが、緊張が体を硬くしていた。黒曜隊時代、魔獣との戦いは日常だったが、今はルナの小さなリボンが懐に重い。彼女の勇気、少年の懇願が、彼の刃に新たな意味を与えていた。


 ズシンと重い足音と共に、森の奥から巨大な影が現れた。


 オーガだ。肩幅は人の二倍、灰色の皮膚には瘤が浮かび、赤黒い目がぎらつく。


 腐肉と血の悪臭が風に乗る。爪は鋭く、牙は月光を反射し、まるで死そのものが形を成したよう。


 オーガは箱の気配を嗅ぎつけ、低く唸り、箱を開けて人形を掴む。赤黒い牙で人形を噛み砕いた瞬間、火薬と薬品が炸裂し、オーガの口腔を内側から引き裂いた。爆音が森を震わせ、鳥が一斉に飛び立つ。


 苦悶の咆哮が響き、アルディオは箱を蹴破って飛び出した。ポーションで夜目を得た瞳が闇を裂き、大剣を逆手に構える。


 痛みに狂うオーガの腹へ跳躍し、両手剣を深く突き立てる。柄の奥で仕掛けのトリガーを引き、大剣の管から硫酸がオーガの体内に流れ込み、オーガの体内を腐蝕させる。


 皮膚が泡立ち、崩れ、悪臭が夜気を満たす。オーガは雄叫びを上げ、巨体を揺らし、アルディオを振り落とそうとする。


 だが、剣士は剣を握りしめ、地面に着地。再度跳び上がり、首を狙って一閃。刃が骨を砕き、オーガの首をはね、血が地面を濡らす。


 オーガはついに倒れ、森に静寂が戻った。




 翌朝、アルディオはオーガの首を背負い村へ戻った。村人たちは息を呑み、歓喜と安堵に沸いた。


 生贄は不要となり、怪物の呪いは終わった。村では小さな祭りが開かれ、炙った川魚、干し肉、香草のスープが並ぶ。


 子供たちが笑い、老人が涙を流す。ルナは震える声で「ありがとう」と呟き、その言葉はアルディオの心に重く響いた。彼女のリボンを返しながら、彼は初めて小さく笑った。


 焚き火の側に腰を下ろし、彼は焦げた魚の皮を齧り、麦酒を煽る。


 村の夜は笑い声と歌声に満ち、火の粉が夜空に舞う。剣士は黙って杯を口に運び、旅の重さを一瞬忘れた。ルナと少年が焚き火の向こうで笑う姿は、黒曜隊の冷たい記憶とは異なる温かさだった。



 これが、黒衣のアルディオが小さな村に灯した希望の物語だ。


 名もなき寒村で、少年と少女の勇気と剣士の刃が怪物に立ち向かい、夜を切り開いた。


 帝国の内乱も、王家の陰謀も、彼には関係ない。


 それでも、彼の剣は確かに世界を変えた。さあ、旅人よ、杯を空にしてくれ。次の物語は、また別の夜に語ろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る