第6話:王妃候補の誘いと、正体への鍵

「仮面を被ってるのは、あなただけじゃありませんのよ?」


イレーヌ嬢の言葉に、私は静かに視線を向けた。

彼女の言う“仮面”が、何を指しているのか。

――それを、互いに言葉にせず、探り合っていた。


王宮内のサロン。

この時間は淑女たちが社交の稽古をする時間帯だが、今日は私とイレーヌ嬢だけが残っていた。


テーブルには、紅茶の代わりに一枚の文書が置かれていた。

そこには、王宮宰相派と第二王子派の不穏な資金の流れが、簡略に記されている。


「……これを、どこで?」


「友人から。――ええ、わたくしにも、“裏”の友人が何人かいますの」


「……お嬢様は、“王妃”になることを、本気で望んでおられますか?」


「さあ、どうでしょう。

王太子の妃になれば、この国の未来に影響を与えられます。

――ですが、同時に命を狙われる立場にもなる」


彼女の笑みは、冷えた紅茶のように張り付いていた。


「だからこそ、必要なのです。貴女のような、信頼できる“剣”が」


「剣?」


「ええ、“教育係”という名のね」


彼女はカップを手に取り、唇に近づけたが、口をつけなかった。


「ミレイユ嬢。共に手を組みませんか? 表でも裏でも、わたくしは貴女を必要としているのです」


それは、明確な共闘の提案だった。


私は、その意味を慎重に噛み砕く。

彼女は私の正体に気づいてはいない――だが、“ただの教育係ではない”ことは確信している。


「……お嬢様は、わたくしを“味方”だとお考えですか?」


「敵でなければ、それで構いませんわ。

――でも、もし貴女がわたくしを“守ろう”とするつもりなら、条件があります」


「条件、でございますか」


イレーヌ嬢は、紅茶のカップを置いて、私の目を見た。


「正直に答えて。貴女は《ナイチンゲール》なの?」


室内の空気が、一瞬にして凍りついた。


その名を、彼女が知っている――?


「どこで、その名を?」


「宰相派の書状の断片にありました。“ナイチンゲールが王太子を守っている”と」


私は、一呼吸だけ置いてから、口を開いた。


「――わたくしは、ただの教育係でございます。

ですが、お嬢様に必要とあらば、夜でも朝でも、必要な指導を行います」


イレーヌは、やや口元を緩めた。


「ふふ、それが“否定”だということは、理解しておりますわ。

ならばもう一つ、情報を差し上げましょう」


そう言って、彼女は懐から一枚の紙片を取り出した。


それは、ミレイユ=クローデルという名が記された、古びた名簿の写し。

そしてその欄には、こう書かれていた。


“元・王宮直属処刑人”

“暗号名:ナイチンゲール”

“現在、所在不明”


私は、その紙を受け取ることなく見つめた。


「……これは、どこから?」


「“第三の派閥”からの流出ですわ。

第二王子派でも、宰相派でもない者たち。

――そして彼らは、ミレイユ嬢。貴女の命を狙っております」


その一言に、私の指先がわずかに震えた。


「共闘を拒んでも構いません。でも、少なくとも言っておきますわ。

今後、仮面を被っているだけでは、生き延びられませんのよ」


その夜、私は仮面を手にしたまま、寝室の窓を開けた。

月明かりに照らされた仮面の表面に、映る自分の瞳を見つめる。


――《ナイチンゲール》が、狩られる番だというのなら。


そのときこそ、私は“仮面”ではなく、“わたくし”として刃を振るうだろう。


静かに仮面をかぶり、マントを羽織る。

新たな敵の足音が、もうすぐそこまで来ていた。

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