第2話:王太子の秘密と、教育係の矛盾
「君は、夜になるとどこに行っている?」
そう言った王太子ルキウス殿下は、冗談を言うような口調だった。
だが、その瞳だけは笑っていなかった。
底の見えない深い灰色の瞳。
それは、誰かの仮面を剥がすために生まれたような、冷たい光を帯びていた。
私は、浅く笑って言葉を返す。
「お散歩が日課でして。眠れない夜に庭を歩くのが習慣でございます、殿下」
「――毎夜、裏門を通ってか?」
その言葉に、わずかに心臓が跳ねた。
けれど表情は崩さない。微笑のまま、私は丁寧に首を傾げてみせた。
「裏門には庭園が近うございますから。人目もなく、静かですもの」
王太子は私を見つめながら、机に置かれた銀製の文鎮を指で転がす。
それが机の端で止まると、彼はぽつりと言った。
「僕は、人の顔色を読むのが得意なんだ」
「……左様でございますか」
「だから、君が何かを隠しているのも、わかるよ」
冷たい汗が背を伝う。
暗殺者としての経験から、私は察する――彼は疑っている。確証はないが、可能性として私を見ている。
だが、それ以上は踏み込んでこない。
今はまだ、“教育係”という仮面のままで通せる。
「君は有能だ。教え子であるイレーヌも、以前よりずっと社交に適した話し方をするようになった」
「光栄に存じます」
「でも――彼女は君を恐れている。気づいてるかい?」
私は沈黙する。
それは知っていた。イレーヌ嬢は私の言葉を聞きながらも、常に一歩引いた位置を保っている。
それは、本能的な防衛反応だ。
「彼女はこう言ったよ。“あの女は、何かを見ている目をしている”と」
王太子は、わざとらしく微笑んだ。
「君の目は、殺す前の目だ。――そう思ったことがある」
それは、鋭い刃だった。
だがその刃は、まだ鞘に納まったまま。
彼は私を試している。
「……王太子殿下」
私はそっと口を開いた。
言葉を慎重に選ぶ。
「わたくしはただ、王太子妃候補が公妃にふさわしい振る舞いを学べるよう、助力をしているだけでございます。
それ以上でも、それ以下でもございません」
「そう。――なら、もうひとつ頼まれてくれ」
王太子の声色が変わった。
冗談でも挑発でもない、命令に近い調子。
「彼女を、守ってくれ。イレーヌを。……君が“何者であれ”構わない。君なら、彼女を殺す者から遠ざけられるだろう」
その瞬間、私は気づいた。
王太子は、私の正体を半ば承知のうえで利用しようとしている。
これは命令ではない。
脅しでも、信頼でもない。
――共犯になれ、という誘いだ。
「……承知いたしました」
私は頭を下げる。
その声が震えなかったのは、鍛えられた心のおかげか、それとも――王太子という男への興味のせいか。
部屋を辞するとき、ルキウス殿下はまた冗談のように言った。
「それにしても、“ナイチンゲール”って、夜に鳴く鳥だったよね」
背を向けたまま、私は言葉を返す。
「左様でございます、殿下。
ですが――鳴き声は、誰にも届きません。夜の森の中では、特に」
そして私は、重い扉を静かに閉じた。
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