第三章:忘れられた谷の神
谷は、眠っていた。
太陽の光すら届かぬ深い木々の狭間、 風がやっとの思いで通るようなその谷間は、 人々からも、神々からも忘れられて久しかった。
だが、その奥にひっそりと咲く一輪の花が、 世界にない色で揺れていた。
◆
アリアは、その花に語りかけていた。
「どうして、ここにひとりでいるの?」
返事はない。けれど、どこか遠くのほうで花が揺れ、葉がさやり、風が小さくため息を吐いたような音がした。
「……そっか、さみしかったんだね」
アリアが手を伸ばしかけた、その瞬間。
花びらが空にふわりと浮き上がった。
続いてもうひとつ、そしてまたひとつ。 それらは風に乗って宙を舞いながら、円を描き、やがて谷の中心に淡い光を集めはじめる。
ユウとサーシャが駆け寄ると、 そこには、透明な羽のような存在が浮かんでいた。
花の神——フローラリア。
忘れられた神々のひと柱。 祈りによってのみ目覚める存在。
「久しいわね、サーシャ。……そして、あなたが、この世界の“あたらしい芽”」
その声は、風そのものだった。 耳ではなく、心に直接降り注ぐようなやさしさがあった。
「あなたが咲かせたの?」
アリアが胸のあたりをそっと押さえる。
「ううん。咲いたかったのはこの子。……わたし、ただ“咲いていいよ”って言っただけ」
フローラリアは微笑み、まなざしをアリアの奥深くへと注ぎ込む。
「それが、“祈り”よ。 許されていない命に“咲いてもいい”と言うこと。 それは、理を超える想いなの」
◆
夜、谷に焚き火が灯された。
ユウが薪をくべる隣で、サーシャとフローラリアが静かに話していた。
「この子は、“咲いてはならない花”だったはずよ」 「でも私は、それでも咲かせたいと思った。……それが、間違いだったのかしら」
フローラリアは、静かに頷いた。
「間違いじゃない。 ただ、まだ世界が“咲かせる意味”を知らなかっただけ。 ……そして今、あの子は、意味ではなく“祈り”として咲いてる」
ユンファの花。 かつてフローラリアが一度だけ咲かせた、摂理を狂わせた命の花。 その記憶が今、少女の中に再び灯りはじめていた。
夜空の下、アリアはひとり草を編みながらこう呟いた。
「だれかに“いていいよ”って言ってもらえるとね……胸があったかくなるの。 それだけで、世界ってすこしやさしくなるんだよ」
谷の風が答えた。 花々が音を立てて揺れ、世界はほんの少し、やさしくなったようだった。
——第三章、了。
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