第三章:忘れられた谷の神

谷は、眠っていた。


太陽の光すら届かぬ深い木々の狭間、 風がやっとの思いで通るようなその谷間は、 人々からも、神々からも忘れられて久しかった。


だが、その奥にひっそりと咲く一輪の花が、 世界にない色で揺れていた。



アリアは、その花に語りかけていた。


「どうして、ここにひとりでいるの?」


返事はない。けれど、どこか遠くのほうで花が揺れ、葉がさやり、風が小さくため息を吐いたような音がした。


「……そっか、さみしかったんだね」


アリアが手を伸ばしかけた、その瞬間。


花びらが空にふわりと浮き上がった。


続いてもうひとつ、そしてまたひとつ。 それらは風に乗って宙を舞いながら、円を描き、やがて谷の中心に淡い光を集めはじめる。


ユウとサーシャが駆け寄ると、 そこには、透明な羽のような存在が浮かんでいた。


花の神——フローラリア。


忘れられた神々のひと柱。 祈りによってのみ目覚める存在。


「久しいわね、サーシャ。……そして、あなたが、この世界の“あたらしい芽”」


その声は、風そのものだった。 耳ではなく、心に直接降り注ぐようなやさしさがあった。


「あなたが咲かせたの?」


アリアが胸のあたりをそっと押さえる。


「ううん。咲いたかったのはこの子。……わたし、ただ“咲いていいよ”って言っただけ」


フローラリアは微笑み、まなざしをアリアの奥深くへと注ぎ込む。


「それが、“祈り”よ。  許されていない命に“咲いてもいい”と言うこと。  それは、理を超える想いなの」



夜、谷に焚き火が灯された。


ユウが薪をくべる隣で、サーシャとフローラリアが静かに話していた。


「この子は、“咲いてはならない花”だったはずよ」 「でも私は、それでも咲かせたいと思った。……それが、間違いだったのかしら」


フローラリアは、静かに頷いた。


「間違いじゃない。  ただ、まだ世界が“咲かせる意味”を知らなかっただけ。  ……そして今、あの子は、意味ではなく“祈り”として咲いてる」


ユンファの花。 かつてフローラリアが一度だけ咲かせた、摂理を狂わせた命の花。 その記憶が今、少女の中に再び灯りはじめていた。


夜空の下、アリアはひとり草を編みながらこう呟いた。


「だれかに“いていいよ”って言ってもらえるとね……胸があったかくなるの。  それだけで、世界ってすこしやさしくなるんだよ」


谷の風が答えた。 花々が音を立てて揺れ、世界はほんの少し、やさしくなったようだった。


——第三章、了。

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