天秤
@KEKEKEKE555
天秤
散らかったワンルームの部屋。机の上にはコンビニで買ってきたお弁当の空の容器や、一口分だけ残ったいつ買ったかもわからないペットボトルがそのままに置かれている。
この薄汚れた部屋から、私たちはいつか二人で夢を叶えて一緒に幸せになる。そう信じていた。
「ただいまー」
朝十時から二十時までのバイトを終えて、彼の待つ部屋へと帰った。扉を開けると、この夏の気温も相まってか、もわっとした臭いが鼻を包む。しかし彼は気にしない様子で、私におかえりの一言も返さずに、耳にはヘッドホンをつけ、肩にはギターをかけて机の上に置かれた紙と向き合っていた。
私は郵便受けに入っていた見たくもない封筒の束を、乱暴に机の上に放り投げると何も気づいていない様子の彼の背後に近づき、力を込めて、それでいて痛くなりすぎないようにめいっぱい手を広げて背中を叩いた。すると彼は驚いた様子で可愛らしい大きい目を真ん丸に見開いて振り返った。
「びっくりしたー。帰ってるなら言ってよ。」
「言ったよー。」
「ごめん。気が付かなかった。頭から油田のごとく歌詞が沸き出てきて。」
「出てくるのは石油じゃなくて廃油でしょ。」
私がふざけて言うと彼はクシャっと笑った。彼は年下の男の子、というイメージをそのまま体現したような顔と性格。時々子犬を飼っているのではないかと錯覚してしまうほどに。
「ごみ捨てといてって朝言ったでしょ。」
私はキッチンの横に置かれた四十五リットルの半透明の袋を縛りながら言ったが、彼はまたヘッドホンを耳につけて自分の世界に入っていってしまった。私も部屋着に着替えると、負けじと先週のレッスンで配られた配役に目を通し、彼が聞こえないのをいいことにボイスレコーダーをオンにすると、レッスンで配られた台本を読み上げて録音した。
だが、録音した自分のセリフを聞いても到底納得できるものではなかった。自分でも分かる。今まで落とされた数々のオーディションで指摘されたように、セリフに感情がこもっていないのだ。もちろんできる限りのことはしているつもりだ。それでも映画やドラマに出ている人たちとは何かが違っているように思えた。今に始まったことではないが。
私はボイスレコーダーを机の上に投げ出すとスマホを開き、イヤホンを耳につけると、無心で動画サイトへと逃げ込んだ。
女の子なら一度は女優に憧れるものだと思う。例に洩れず、私もそうだった。そこそこの田舎で生まれた私にとって、テレビというものは重要な娯楽の一つだった。
小学生の頃は、家に帰るとすぐにテレビをつけて録画していたドラマを再生して、母にご飯の時間だよと言われるまで、テレビの前に地蔵のように座っている毎日だった。そして母もテレビばかり見ている私を咎めるようなことはしなかった。
そんな環境だったということもあり、私が学校から出される作文や宿題などに、将来の夢は女優になること。と書くまでさほど時間はかからなかった。
しかし、私が中学生の頃にいくら本気で女優になりたいと言っても、父と母は「一時の夢なんだから、もう少し大きくなったらまた考えなさい。」と言って本気にはしてくれなかった。だが、私は焦っていたのだ。
テレビに出ている女優の名前をネットで検索すると、早い人は子役から、遅くても高校を卒業する前には何かしらの活動をしている人たちがほとんどだった。それも主役級の人のみではない。ほんの数分の出番の人でも、例外ではなかった。
こんな田舎でスカウトされるわけもなかった私にできたことは、せいぜい親に内緒で事務所に履歴書を送ることくらいで、その唯一の望みにも返事がきたことはなかった。
けれども、高校を卒業するときになってもやはり私はあきらめられなかった。親の反対を押し切り上京し、必死にバイトをしながら四年制専門学校の演技科に通ったのだ。
彼とはそこで出会った。同じ学校の音楽アーティスト科にいたミュージシャン志望の彼とたまたま飲み会で仲良くなり、自然な流れで交際。私の卒業間近に同棲を始めた。二人で借りたこの部屋から一緒に成功する。彼が主題歌を歌うドラマの主演を私が務める。そう約束してから三年以上の月日が流れた。これといった活躍もなく、私は専門学校を卒業したにも関わらず、毎月多額のレッスン費を払いながら週に一回、養成所のレッスンに通うことで夢にしがみつき、レッスン費と生活費を稼ぐためにバイトをする毎日。
私はまだ青い果実で、きっといつか熟れる。そう思ってはいるものの、心のほんの一角に存在する小さな黒い斑点は、徐々に数を増やし、大きくなっているように感じる。
一時間ほどブランド品の開封動画を見漁った私はソファーから立ち上がり、キッチンの横にあったごみ袋を玄関の外に置かれた水色の蓋つきポリバケツに入れると、しっかりとふたを閉めた。
扉を開けて部屋に戻ると、ちょうど彼も一段落したようで、何やら冷蔵庫を探っていた。
「今日何食べる?なんもないしデリバリー頼む?」
彼は目を輝かせながら言う。魂胆はわかっている。二十四歳にもなってクレジットカードを持っていない彼は、自分のスマホのアプリでデリバリーを頼むことはできない。いや正確にはできるのだが、彼の主張では現金払いは面倒らしい。だからデリバリーを頼むとなると私のおごりになるのだ。嫌なわけではないが割高になる。
「いや、コンビニ行こ。」
「えー。」
「最近運動してないでしょう。お散歩行くよ。」
彼はしぶしぶ冷蔵庫を閉めると、私とおそろいの市民プールでしか見ないような茶色のサンダルを履いた。
コンビニまでは歩いて十五分。ガタンゴトンと音を立てる路面電車が、線路沿いを歩く私たちの横を通り抜けると同時に、夏の夜の心地よい風が私たちの頬をなでる。
「最近どうなの。路上ライブは。」
私の横を歩く彼に尋ねた。彼は一年ほど前から毎日のように路上ライブをしているが、私は見に行ったことはなかった。というよりは見に行かせてもらったことはなかった。私に見られるは恥ずかしいから来ないでくれと言われていたのだ。外で歌う彼の姿を見られないのは少し残念だったが、そんなところもいじらしくて好きだった。
「相変わらずだよ。結構人は来てくれるんだけどね。みんないい曲とか上手いって言ってくれるし。」
嬉しくも複雑な気持ち。
「そっか。いつか見に行きたいな。」
「見に来なくても大丈夫だよ。」
「なんで?」
「だって、いつか嫌でも聞くことになるよ。テレビとかでね!」
自信満々に言うと彼は私の手を引っ張って走り出した。暗い道の中、月明かりと道の端の街頭は私たちをスポットライトのように照らし、脱げそうになるサンダルで夜の街を駆け抜けた。
ある日いつものようにバイトに行き、更衣室で着替え終えて店頭に向かうと、店長が何やら手にメモを持った若い女の子と話していた。新しいバイトの子だろうか。
店長は私に気がつくと「渡部さん、ちょっといい?」と言い、こちらに来るようにと手招きをした。
「この子今日から入ったバイトの子だから色々教えてあげてくれる?」
店長の横で、その子はペコっと頭を下げた。私より何歳か年下のようで、目鼻立ちがくっきりとした可愛らしい子。大学生くらいだろうか。私は二つ返事で店長のお願いを引き受けた。
「加藤愛理です。今年で十九歳です。分からないことが多いので色々教えてください。」
彼女は、また小さく頭を下げた。いい子なんだろうなというのが私の印象で、教えがいがありそうだなとなんとなく思った。
「渡部美和です。初めはみんなできないし、わかんないことあったら何でも聞いてね。私も最初はそうだったからさ。」
少し先輩面をしてしまった気もしたが、彼女はこくりとうなずくと真っ白い歯を見せて笑った。座席番号や、メニューの見方などを、打ち解けるために世間話を交えながら教えると、どうやら彼女も緊張がほぐれたのか質問をしてくるようになった。
「そういえば渡部さんって何歳なんですか。」
きっと悪気のない質問なのだろう。私自身、年を聞かれて困るほどの年齢でもないが、専門学校を卒業してから新しく入るバイトの子に年齢を言うことに抵抗があった。しかし答えないわけにもいかない。
「二十五歳だよ。」
「あっ。そうなんですね。」
一瞬沈黙が流れた気がした。だがこの子は何も悪くない。杞憂かもしれないが、私は相手に気まずさを感じさせないために、質問を返す。
「愛理ちゃんは十九歳ってことは大学生?」
「はい!」
「そっか。地元はこの辺?」
「いや、全然。地方の方です。」
「じゃあ大学のために上京してきたんだ。」
「はい!一応。」
彼女は少し照れ臭そうに下を向いた。私はなぜ照れ臭そうにしたのかわからなかったが、疑問に思ったことをそのまま聞く。
「一応?」
彼女は、照れを隠すように眉尻を下げたが、何かが漏れだすかのように口角は徐々に上がっていくようにみえた。唐突に、全然勉強してないと言いながらも、いざ私が結果を尋ねると九割を超えた点数を見せてきた友人の顔が浮かぶ。
「私高校生の頃、ちょっとした賞をもらって。元々は地元の大学に行こうと思ってたんですけど、その関係でせっかくなら東京の大学に行った方がいいって親と話して。それで。」
彼女がわざわざ一応と言った意味を理解した私は、きっと彼女が言ってほしいであろう言葉を発する。
「すごいね!賞って!なんの?」
「いやその、女子高生コンテストってやつで。全然グランプリとかじゃないんですけど審査員賞みたいなの頂いて。事務所に入れるってなったんで。まだ全然大きい仕事とかはないんですけど…」
左心房の奥がちくりと痛み、沸き立つように顔に血が上っていくのが感じる。そしてそれと同時に胸から何か抜けていくようだった。さっきまで先輩面をしていた自分が急に恥ずかしく思えた。
「女子高生コンテスト!すごいね!」
私は動揺を悟られないように、説明していたランチメニューを一ページめくり、彼女の目をゆっくり見た。ほしい言葉をもらえて満足しているように見えた。私は震えそうになる喉を何とか抑えながら声を出した。もちろん笑顔は保ったままで。
「じゃあ、テレビとか出たり?」
彼女はフルフルと首を振った。
「いやまだそんな…この間ドラマで主人公の娘役としてちょっと出たくらいで。」
「娘役か。でもすごいじゃん。へー。ほんとにそんな子いるんだ。」
目頭が熱くなる。何とも言えない虚無感と敗北感が空っぽになった胸に溜まっていく。私はその場から逃げ出したくなる気持ちを抑えて、必死の抵抗で彼女に微笑みと尊敬の言葉を送った。
反対に彼女は承認欲求が満たされて気分がよくなったからなのか、さっき私に年齢を聞いたときに本当は聞きたかったのであろう質問をぶつけてきた。
「渡部さんって何かされている方なんですか?」
速くなる鼓動。背中には冷たい汗が流れていくのを感じた。
「フリーターなんだ。やりたいこと見つかるまでとりあえずって感じで。」
「あ、そうなんですね!なんかいいですね。自由!って感じで」
彼女の可もなく不可もない、どちらかと言えば不可な返答を消し去るかのように、私はパンっと手をたたき、「そろそろレジ操作やろうか。」と彼女を促した。
バイトを終え、逃げるように店外に出ると、この時間ならば見えるはずの茜色の夕焼けも、淀んだ分厚い雲に遮られ、顔を出すことはなかった。自然と小さなため息が出た。
帰り道、店の近くのコンビニに寄った私は、何年ぶりだろうか、店員に番号を告げ四角い箱を受け取った。お釣りは百円玉四枚。てっきり五百円玉が帰ってくると思っていたから、店員が間違えているのかと思ったが、改めて値札を見返すと何も間違ってはいないようだった。店の前に置かれた銀色の筒の前で、使い古したカバンの奥底からライターを取り出すと口にくわえた一本に火をつける。じゅわっという音と共に、懐かしい香りと苦みが口に広がる。その口に広がった煙を肺に取り込もうとするが、その途中で、のどの焼けるような痛みによってむせ返してしまった。
二十歳になってそこそこの頃、専門学校の友人にストレス解消になると勧められ吸い始めたけれど、結局歯が黄色くなったら困ることに後で気づき、渋々やめた煙草。そんな煙草にも、今更私の身体は適応できないようだった。
自分との約束を破った私は、多少の罪悪感にさいなまれながら、結局二口目を吸うことはせずに、押し付けるようにして火を消すと箱ごとごみ箱に捨ててしまった。
コンビニを後にしてスマホを開くと時間は十八時。私は引き寄せられるように最寄りの駅まで走った。この時間ならまだ…。
彼が路上ライブをしているのは、私達の家やバイト先のある駅から三駅離れたところ。急いでスイカにチャージをすると、私は締まりそうな扉をすり抜け電車に乗り込んだ。
勝手に行ったら彼は怒るだろうか。もしかしたら少し喜んでくれるだろうか。電車に揺られながらそんなことを考えていた。だが、彼がどうというよりかは、私がどうしても彼の歌声を聞きたかった。人に囲まれて歌う彼の姿を見たかった。その姿はきっと今私の胸に溜まったものを振り払って、勇気与えてくれるはずだと。
車窓の外は暗くなり始め、沿線の家の明かりがぽつりぽつりとつき始める。私は窓から目をそらした。その明かりが私に現実を突きつけているかのように感じたからだ。
この世の人の大半は普通に生きている。
普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供を産んで。きっと今明かりがついた一軒家に住む人もそうなのだろう。じゃあ、私は何をしているのだろう。考えたくない。
彼のいるであろう駅に着いた私は、急いで下車すると人ごみをかき分けるように駆け足で階段を上り、改札をくぐった。あたりを見渡す。駅前にはほかにも路上ライブをしている人が何人かいて、皆なかなかに観衆が集まっているようだった。しかし観衆が、その歌声を目的として囲んでいる人を注視して探しても彼の姿は見つからない。
もう帰ってしまったのだろうか。少し歩き回った後、とぼとぼと改札に戻ろうとしたとき、知っているフレーズが遠くから聞こえた。いつだかバラエティー番組で、多くの音の中からでも自分に関係する情報や興味のある情報は、他の情報と比べて聞き取りやすい。というものを検証していた。その時は、へー。そうなんだ、くらいにしか思わなかった。しかしいざ自分にその現象が起きると人体の不思議を実感した。
「散らかったこの部屋から二人で羽ばたこう。」
雑音が入り乱れる駅前で、その一節は確かに私の耳をさした。私は踵を返すと確かに聞こえた声の方に走り出した。
結果、彼は見つかった。駅前で路上ライブをしている人たちから少し離れたところに、彼はいた。
だが、彼を目的として囲む人はだれ一人としていなかった。
遠くから見ている私以外、誰も彼のことなど気にも留めない様子でスマホを見ながら、談笑をしながら、彼の前を通り過ぎていく。そんな中、彼は一人で懸命に歌っていた。
私は彼に勇気をもらいに来たのだ。観衆に囲まれる彼を見て私も頑張らなくては。そう思うために来たのだ。
でも結局、現実を知った私の中に生まれた感情は、彼も私と同族だったのだという安堵だった。自分だけではなかったのだという安心感。
遠くからしばらく彼の様子を眺めていたが、雲が頭上に落とした水滴の感覚で我に返った私は、ただ一人の観客になることはせず彼に背を向けると、もと来た道をゆっくりと歩き始めた。
その夜、私は珍しく料理をした。もちろん作るのは彼の大好きなハンバーグで、冷凍のものではなく、帰り道に急いでスーパーで材料を買って一から作った正真正銘の手作り。包丁を握る右手には自然と力が入る。トントンとリズムよく玉ねぎを刻んでいると、眼球が熱を帯び充血した目から涙がこぼれる。私はTシャツの袖でそれを拭うと、手袋をつけてひき肉をボウルに入れてこねると、さっき切った玉ねぎと解いた卵、それとパン粉を混ぜ合わせ楕円上になった肉塊の真ん中をくぼませてフライパンに乗せる。
ジュ―っという音と共に香ばしい香りが、狭いキッチンに充満する。
「ただいまー」
ちょうどハンバーグが焼きあがるタイミングで彼が帰ってきた。
「おかえり。」
私は優しく出迎える。彼はすんすんと鼻を動かすと、目をキラキラとさせた。
「ハンバーグだ。」
彼は肩にかけたケースに入ったギターや荷物を置くと、珍しく机の上を片付け、棚から食器を取り出すと食事の準備を始めた。
きっとこういうのでいいんだ。夢を叶えることが全てじゃない。彼と普通に暮らしていくというのも幸せじゃないか。そう考えたら胸が軽くなっていくようだった。
食事を終えて、彼がお風呂に入っている間に私は洗い物をしていた。いつもコンビニばかりだから洗い物は久しぶりだった。フライパンにこびりついた油や肉片はなかなか剝がれてくれない。私は面倒になり、お湯をフライパンにためるとシンクの中に乱暴に放り投げた。
彼の後に入浴を済ませ、彼とお揃いのグレーのスウェットを着て脱衣所で髪を乾かすと、リビングに向かった。すでに部屋は薄暗くなっていた。先にベッドにもぐりこんだ彼の背中をツンツンとつつく。常夜灯が振り向いた彼の顔を照らした。
「どうしたの?」
私が眠そうな顔をしている彼の頭を撫でると、サラサラの髪の間を指が通り抜けていく。
「私ね、就活しようと思う。」
眠たそうだった彼の目が大きく開いた。私はそんな彼の頭を撫で続けた。
「もうこんな生活続けられないと思う。私今年で二十六歳になるし、将来のこととか。周りの子も結婚とかしてて。まずはちゃんと就職するところから始めようと思うの。」
「逃げるの?」
彼が低い声で言った。私は少し背筋がこわばるのを感じた。今まで喧嘩をしても何をしても彼がここまで低く冷たい声を発したことはなかった。数秒の沈黙。さっきまで気にならなかったのに、しとしとと聞こえる雨音が私を責め立てているように感じて、私は弁明をするように口を開いた。
「逃げるわけじゃないよ。でも選択をしなきゃいけないの。せいぜいエキストラしかしたことのない私が成功する確率と普通に就職して普通に幸せになる確率。もうそろそろ現実的な方を選ばないと」
「何があるか分からないじゃん。俺が主題歌を歌うドラマに美和ちゃんが主演。あれ嘘だったの。」
彼の言葉に、(それは私だけじゃなくてあなたも無理じゃない。)そう返しそうになったが言葉を飲み込んだ。
「私たちはさ、いつからか夢に逃げてたんじゃないかな。」
「逃げてるのはそっちじゃん。」
「違うよ。私たちは夢を追うっていうのを口実にして現実から逃げてたんじゃないかな。でも今からなら間に合うと思うの。今からなら普通に幸せになれると思うの。」
「それを言うなら美和ちゃんは現実に逃げるんだ。普通って言葉を盾にして、辛いことから目を背けるんだ。じゃあ美和ちゃんの言う普通って何?それが正しいことなの?」
彼が薄暗い部屋の中で私の目をまっすぐ見た。
「普通…。わかんないけどさ。今すぐとかじゃないけど私たちもいつか結婚して、家族になって授業参観とか運動会とか見に行って、休みの日には…。」
一歳とは言え、年上の私がしっかりしなくてはいけない。そう思っていたのにだんだんと声は震えて、目からは大粒の涙が流れてきた。
だが彼は、年甲斐もなく泣いてる私をよそ目につぶやいた。
「夢を諦めるなら一人で諦めてよ。それに美和ちゃんがそんな簡単に諦める人なんて思わなかった。」
そう言うと彼は壁の方に体を向けた。ぼやけていく視界に見えるその背中はなんだか別人のように思えた。
私は、ベッドからゆっくり降りて玄関でサンダルを履くと、扉を開けて真っ暗で冷たい夜の世界へと出た。思ったよりも雨は激しく降っていて、傘も持たず出てきたことを少し後悔した。すぐに乾かしたばかりの髪から水が滴るのを感じる。
私の選択は間違いなのだろうか。彼にとって私は、夢を追う仲間のような存在だったのだろうか。正解は何なのだろうか。
上を向いても、雲に隠れた月は私を照らしてはくれなかったし、街灯は切れかかっているのかちかちかと点滅していた。降り注ぐ雨は私の涙を少しずつ加速させ、顔の温もりを容赦なく奪っていく。私はせめて自分の涙だけは止めようと必死に足を動かして暗闇の中を走った。アスファルトに溜まる雨水は私の足元にパシャリパシャリと音を立てて跳ね、セットアップのスウェットは肩と足元からどんどんと黒色に変色していく。
私はそのまま、上がりっぱなしの踏切を走り抜けようとした時、溝にサンダルが引っ掛かり、だれも見ていない中盛大に転んだ。頬と手のひらはひりひりと痛み、背中と腹部がどんどんと冷たくなっていく。脱げたサンダルを拾う気にはならなかった。
「横山さん、お疲れ様です。」
「お疲れ様。お先に失礼するわね。」
今年の新入社員の子に先輩らしい余裕のある笑顔を向けて、いつもより早く私は職場を後にした。
「横山さん」この名前で呼ばれることに初めこそは違和感はあったが、もうすっかり慣れてしまった。
地元に戻った私は一般の中小企業に就職したが、意外にも悪いものではなかった。毎日決まった時間に起きて決まった時間に出勤する。決まった時間に終わり、決まった日に休みがある。毎月給料は貰えるし、生活費に困るということもなくなった。
そしてなにより、この仕事のおかげで今の旦那に出会えた。彼は役所勤めで、真面目で優しくて、旦那としては完璧な人だった。プロポーズされた時はもちろん喜んだけれど、私以上に喜んでくれたのは両親だった。私が会わせたい人がいるといったとき、二人は大喜びをし、その相手が役所務めだというと涙を流した。この時、二人には本当に心配をかけていたことを実感し私まで涙を流してしまった。
おまけに旦那は育児にも協力的だったから、私は出産した後にスムーズに会社に復帰することができた。
驚くほどのとんとん拍子。
自転車にまたがり、スイッチをオンにして漕ぎ始めるとスイスイと進んでいく。私は電動アシストの力を借りながら力強く漕いで愛しの娘が待つ保育園へと向かった。
保育園の駐輪場に自転車を止めて、入口へと向かうと先生が私の姿を見つけて中で待っている娘の名前を呼んだ。
「美優ちゃん、まま来たよー。」
その声に反応して美優は部屋からひょこっと顔を出すと天使のような笑顔を私に向け、急いで靴を履き始めた。
私がその様子を微笑みながら見ていると、先生が私にすこし体を近づけた。
「今日美優ちゃん喧嘩していた他の子の仲裁に入って止めてあげたんです。なかなかできることじゃないと思うので沢山褒めてあげてください。」
そう小さい声で言われて、私はとても誇らしい気持ちになった。靴を履き終えて「ままー」と笑顔で走ってきた天使を抱きかかえると、先生に会釈をして自転車の方へ向かって歩き出した。
美優を後ろのチャイルドシートに乗せて自転車を漕ぐと、冷たい風が私の頬を撫でる。
「美優、今日友達の喧嘩止めたんだって?すごいじゃん。いいこだねー。」
私は後ろに座る美優に話しかけた。すると予想通り自慢げに話を始める美優の声が後ろから聞こえる。
「別に喧嘩してたんじゃないよ。真央ちゃんと沙耶ちゃんがね、やりたい遊びが違ったの。真央ちゃんはね、おままごとしたくて、沙耶ちゃんは砂場で遊びたかったの。でもねあんまり時間がなかったからどっちもはできなかったの。私はどっちでもよかったんだけど。」
「それでそうしたの。」
私が自転車を漕ぎながら聞くと美優は得意げに続けた。
「だからね、ちゃんとみんなで話して決めよって言ったの。それで今日は天気があんまりよくないから今日は中でおままごとしよってなって。天気のいい日に砂場で遊ぶことにしたの。」
「そっか。えらいね。ちゃんと話し合ったんだね」
何かが胸に引っかかった気がしたが、それはすぐに違う思考によって流された。
「美優、ごめん。トイレの電球切れてたの忘れてた。電気屋さん寄っていい?」
「いいよ!」
美優の素直な返事によって、私は電気屋に行くために右に曲がると商店街に向かって自転車を漕いだ。
電気屋につくと、美優を抱きかかえてチャイルドシートから降ろすと二人で手をつなぎ店内へと入った。置かれた数台のテレビからニュースやコマーシャルの音が聞こえてくる。
トイレの電球と同じ型のものを探し店内のものを物色していると、意外にもそれはすぐに見つかった。
その時、知っている歌声が私の鼓膜を揺すった。一瞬時が止まったように感じた。だが無情にも時はすぐに流れ始め、容赦なく私の耳に侵入する歌声は私の胸をえぐった。
「彼の…声だ。」
私は美優の手を引き、その声の方へと向かった。どうやらテレビコーナーに置かれた大型テレビのどれかから流れていたようだったが、私が来た時には、もう彼の声は聞こえなかった。しかし、ちょうど終わりかけのコマーシャルのラストシーンに表示された、テレビドラマの題名らしきものが目に入った。
「まま?」
心配そうにこちらを見上げる美優。
私は美優とつないでいる左手と反対の手をポケットに突っ込むと、スマホを取り出し検索エンジンにその題名を打ち込んだ。するとスマホはすぐに「ナイト木曜ドラマ 夜十一時五十九分」などと、情報を伝えてくれる。
力が入らず落としそうになったスマホを持ち直し、震える親指でなんとかそのドラマのホームページをタップした。
主題歌には共に夢を追った彼の名前.。
そして主演には、私がレジの操作方法を何回も教えてあげた、愛理の字。
私はドクン、ドクンと大きくなっていく鼓動と比例するように「まま、どうしたの。まま?」と問いかける娘の手を強く、強く握りしめた。
天秤 @KEKEKEKE555
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