第4話
女は珠代と名乗った。柚子と呼んでいた子供はやはり娘だったらしい。
夫は北東戦線にて桜花部隊として出陣し、箱の中の小石になって戻ってきたらしい。
もう少し戦争が長引けば新作も桜の名を関した部隊に編成され、人生最後の出撃を味わったことだろう。桜の花は春のごく短い期間にしか咲くことはない。この部隊に課せられた任務も同様である。たった一度の出撃に全身に爆薬を巻き付け敵の砲台や前線基地に突っ込むのだ。何度もその様子を目の当たりにはしたが、部隊員はみな麻薬を注射され笑いながら突っ込んでいった。初めてそれを目にしたのは去年の十月だった。
新作は直感ですべてを悟った。
あぁこんな戦い方をはじめたということはこの国ももう長くないなと。
その予想は見事に的中し、翌年の一月に日本の完全降伏というかたちで戦争は終結した。
新作が珠代と柚子のもとで暮らすようになって三日が経った。
終戦後、帝都へと流されてからというものろくに人間らしい生活を送っていなかった新作にとってはなんとも懐かしい三日間であった。
けれどそれは最底辺のものであることには変わりなく食べるためには物乞いのような真似をするしかない。
今はまだ新作が渡した硬貨のおかげでなんとか食い扶持を繋いではいるが、いずれちかいうちにそれも尽きることは目に見えていた。
珠代はかいがいしく新作の世話を焼いた貴重なあわひえの飯を食わせ、よく包帯を取り換えてくれた。
新作が不気味に思いなぜかと問うと
「はじめてだったんです。夫を亡くしてから人にやさしくされたの。」
とかえってきた。
一瞬本当にその「優しい」が自分をさしているとは思えず戸惑った。
どうやら硬貨を投げ捨てるように渡すことでも優しいと思わせてしまう世の中にまで落ちぶれていたらしい。
珠代の首筋の傷、下ろした髪で隠してはいるが恐らくそん中で誰かに乱暴されてできたものだろう。新作はその時はじめて、はやくこの体は治らないものかと思い至った。
その晩、これまでのようにぼろ布をありあわせた布団で寝ていた珠代は隣から聞こえる絶叫に目を覚ました。
見ると二つとなりで寝ている新作が自らの首を掻きむしり苦しみもがいていた。
「新作さん」
珠代は慌てて寝ている新作へと駆け寄り、彼の肩を揺さぶる。
しかし、まったく起きる気配のない新作はただうわごとのように「死なせてくれ」「やめろ」「助けてくれと」支離滅裂な言葉を譫言のように繰り返していた。
そんなようすの新作をどうすることもできず珠代は縋りつくように彼を抱きしめながら「大丈夫」と繰り返すほかなかった。
朝、目覚めた新作は乱れた寝具の上で自らを抱きしめて疲れ切った顔で眠る珠代を揺り起すことを余儀なくされた。
柚子は夜中の騒ぎのあいだ泣いていたからなのか今は起きる気配をみせない。
「どんな夢だったんですか」
珠代は静謐な色を映した瞳で新作に問いかけた。
「すみません。ほんとうに。迷惑をかけてしまったみたいで。」
「そんなことはいいんです。それより何にうなされていたのですか。」
珠代のあまりにもきっぱりとした物言いに少し気圧されながらも自らを引きずり倒そうとしてくる骸たちのことを話した。
「そう、でしたか。なんと言っていいものか」
「いえ、すみませんこんな重苦しい話。」
そういって頭を下げようとする新作を無言で頭を振って珠代は止めた。
「いいんです。私は、あなたの力になりたいの。」
そう言って見つめてくる珠代の視線をなぜか新作は躱すことができなかった。
彼らが三人で暮らすようになって二週間が経過した。
幸いなことに新作の足はかろうじて動くようになり、生活の不自由なことは減りつつあった。
「あの、珠代さん。少し話が。」
外で洗濯を干していた珠代は首をかしげ、なんでしょうかと小屋の中へ入ってきた。
「実は俺、働ける場所を探そうと思ってて。このまま頼りきりなのはよくないし、もう以前お渡ししたお金も底を尽きたころじゃないんですか。」
「えぇまぁ。」
多少動揺した様子で受け応える珠代にそのまま考えていることを話す。
「それで俺がもっとちゃんと稼げたらこの家もちゃんと建てれて暮らしやすくなるかなって。」
あっけにとられた様相をみせた後、珠代は微笑んで短く息を吐いた。
「よかった。もしかして私捨てられちゃうのかと思いました。」
冗談交じりにそう笑う彼女に今度は新作があっけにとられる。
「え、いや、なんでそんな。」
「いえ、もういいんですよ。」
おかしそうに緩めた口元を手の甲で隠しながら珠代は優しくそうつぶやいた。
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