第5話 極東の魔女ルナの使い魔

「変質者とは失礼にゃ。ワシは高位の使い魔だにゃ」

「いきなり全裸で出迎えるのは変態以外にいないでしょうが! ここ、これ着て!」


 私は目線をそらしながら、玄関先にハンガーでかけてあったスプリングコートを掴んで差し出す。

 春先はよく着ていたが急に温かくなったので置きっぱなしにしていたのだ。


 全裸男は、しぶしぶと言った感じでコートを受け取り、袖を腰に回して前掛けのように後ろで結んだ。

 陰部は隠れたけど……あとで入念に洗濯をしよう。


「隠してやったにゃ」

「ありがとう。それじゃあ、さっそく警察に連絡を――」


 スマホを取り出して110を押そうとしたが、男に叩き落とされてしまった。

 骨ばった手で繰り出された猫パンチ(?)の威力はすごくて、四世代前の機種は壁にめり込む。


「何するんですか! 不法侵入した上にワイセツ物を露出して、器物損壊まで!」

「隙あらば通報しようとするにゃ。ワシの話を聞け、ルナの孫娘よ」


 両肩を掴まれて、はたと我に返った。

 昨晩もそうだった。


 黒猫からこの声で、同じように呼びかけられたのだった。


「あなた、何者なの?」

「ワシは極東の魔女ルナの使い魔クロノス・インボルグ。証拠を見せてやるにゃ」


 北極の氷が海にすべり落ちるように男の背丈が縮まって、なぞの黒い物体が床にわだかまる。


 ほどけたコートの上で、コールタールのように粘度のある黒がモゾモゾと形を変え、ピンと尖った耳が、丸い頭が、しなやかな胴が、短い足が次々に現れた。


 最後に細くて長いしっぽが伸びて、青い瞳がパッと開くと、全身が撫で心地のよさそうなモフモフの毛に変わった。


 それは、昨晩連れ帰ってきた黒猫だった。


「……うそ。人が猫になっちゃった」


「こちらが本来のワシの姿にゃ。高位の使い魔は、主の命令を遂行するために人間に化けるのもお手の物。といっても、主であるルナはずいぶん前にこの世を去ったにゃ……」


 寂しそうに言葉を切ったクロノス・インボルグ――長いからクロと呼ぼう――クロは、居丈高な態度が嘘みたいに静かになった。


 祖母の真城ルナが亡くなったのは十年前。私が十九歳の時だった。


 東北の田舎で一人暮らしていた祖母は、薬草や天候に詳しくて自然を愛していた。

 子どもの頃は、夏休みになると祖母の家で暮らすのが日課だった。


 祖母は、転んですりむいた膝にんだヨモギの葉を当てて手当てしたり、摘んだ木苺を煮詰めて甘酸っぱいジャムを作ったりしてくれた。


 流星群が見える晩は、ガラス張りの温室にこもって、ミルクティを飲みながら一緒に夜更かししたっけ。


 現代社会では忘れられた生きる知恵を蓄えた人だったのだ。

 地域の人々も祖母を頼りにして、困り事があるたびに相談に来ていた。


「おばあちゃん、魔女みたいな人だったよね。よく覚えてる。でも、猫なんて飼っていなかったよ。金魚は二匹いたけど」

「お前が追いかけまわすから隠れていたのにゃ。真夏の野良猫暮らしは地獄だったにゃあ!」


 ふんと鼻息荒くして、クロは居丈高な態度を取り戻した。

 四本の足で立ち上がった姿も堂々として見える。


「ワシはお前が赤子の頃から知っておるにゃ。生まれつき魔女の素質があることも、それがいずれお前自身を苦しめることも。瑠香、お前が人間社会になじめないのは魔女だからにゃ」


「魔女って、箒で空を飛んだり魔法を使ったりする、あの魔女だよね? 私にそんなことできるわけないよ。ゲームやアニメの世界じゃあるまいし」


 現実は物語とは違うのだ。

 起きて、眠って、悩んで、励んで……そんな夢も希望もない時間が死ぬまで続く。


 私は、変身する黒猫は受け入れられても、自分が魔女――祖母のように何でも出来る人間になれるとはどうしても思えない。


 苦笑いする私とは対照的に、クロの瞳は真剣さを帯びている。


「出来ない出来ないと言い訳しているうちは何者にもなれないにゃ。だが瑠香。お前には才能があるにゃ。才能とは可能性、何者かになることを諦めてはいかんにゃ」


「可能性なんてないよ、私には」


 狭いワンルームは、玄関のそばに簡易キッチンがあり、その奥に六畳間が広がる。


 クロはそちらの部屋も見ただろうか。

 埃を被ったパソコンと液晶タブレット、片手を上げた状態で放置されたデッサン人形を見ても、何も感じなかったのだろうか。


「私、もう挑戦するのはやめたの」



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 毛布を被って時計の秒針の音を聞きながら、私は寝返りを打った。


(眠れない……)


 照明を落として、遮光カーテンを閉めた暗い部屋に、足下で丸まったクロの寝息が響いている。


 自称・祖母の使い魔である黒猫(語尾が「にゃ」の元全裸男性)は、おしゃべりが好きならしく、私が夕食を作っている間も一緒に食べている時も、ずっと祖母の話をしていた。


 覚えていることも知らないこともあり、私はいよいよ彼が祖母の使い魔だと認めざるを得なくなった。

 でも、いきなり魔女になれと言われて、さあ頑張るぞ! とはならないだろう。


(ううん。なれと言われたのが〝魔女〟だからではなくて……)


 それ以外の何か、たとえば声優やCAや歯科助手になれと言われても、私は同様に断ったはずだ。


 才能がある。可能性がある。

 そんな言葉に奮い立たせられる勇気はもうない。


 専門学校時代のとある出来事によって、すっかり消え失せてしまった。

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