第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その四

 例の一件でメイド服を着るようになったワタクシですが、実はもう一つ重大な問題を抱えていました。それは端的に申し上げると私物の紛失です。月ノ下商店街での混乱に巻き込まれたあの日、ワタクシは大切な携帯端末をなくしてしまったのです。それはワタクシが高校に進学して、ようやく買い与えられた大切な通信連絡手段でした。イチゴのキーホルダーを付け、どこに落としてもすぐに分かるようにしていたつもりなのですが、思い当たる場所をどれだけ探しても一向に見つかりません。とうとう観念して、お母様に事の経緯を打ち明けようと思案していたところ――彼はまるで預言者のように、ワタクシの前に現れたのです。


「――あ、ある人を捜しているんですけど」


 M高校の制服を着た彼は言いました。


 彼はとある女子生徒を捜していました。理由を尋ねると、彼は学生鞄からイチゴのキーホルダーが付いた一台の携帯端末を取り出しました……こんな偶然があるでしょうか。彼の捜し人は、携帯端末をなくしたワタクシだったのです。


 ですが、今のワタクシは、工業高校のお嬢ではありません。ワタクシは今、超喫茶エウロパの看板メイド・イチゴちゃんなのです。素性を隠している以上、お譲として彼から携帯端末を受け取ることはできません。


「もしよろしければ、ワタクシから彼女に手渡しておきましょうか?」


 正体を明かせないワタクシはお嬢と交友関係があることを装いました。


 そうすれば、彼はすぐにでも携帯端末を差し出してくれると考えたのです。


 しかし、彼はワタクシの予想に反して、手にした携帯端末を学生鞄に戻してしまいました。どうやら彼には思うところがあるようで、拾った端末は直接お嬢に手渡すつもりらしいのです……ワタクシがそのお嬢本人なのですが。


 そうは言っても、彼にワタクシの正体を明かすわけにはいきません。イチゴちゃんは世を忍ぶ仮の姿。喫茶店でのアルバイトを成立させるためにも、何よりお嬢としての体裁を保つためにも、ワタクシは優れたメイドであり続けなければならないのです。


 だけど、携帯端末は今すぐ返してほしい! 彼はお嬢本人に直接手渡すつもりらしいですが、その保証はどこにもないのですから。


 ワタクシは、歩き去ろうとする彼の腕を掴み、強引に店へと案内しました。


 ――そして、これといった目算もなく現在に至ります。


「コーヒーになります」


 ワタクシは彼を窓際の席に案内すると、一杯のコーヒーを提供しました。


「あ、ありがとう……ございます」


 まるで借りてきた猫のような様子の彼は、カップから立ち昇る湯気に視線を落としました。


「「…………」」


 そして、沈黙。本来なら超喫茶エウロパは閉店している時間ですから、当然のことながらお客……いえ、ご主人様は彼以外いません。


 トレーを抱えるワタクシは彼の傍らに立ち続けることにしました。


「あ、あの……」


 彼は不安げに言います。


「そうまじまじと見つめられると、何だか落ち着かないんですけど……」


「どうぞ、お気になさらず。コーヒー、冷めてしまいますよ?」


「……はい、いただきます」


 彼はそう呟くと、ようやくカップを持ち上げ、フーフーと息を吹きかけながらコーヒーを口に含みました。


「……飲みましたね?」


 ワタクシの言葉に、彼はむせ返ってしまいました。


「だ、駄目だったんですか⁉」


「いえ、お飲みいただいて問題ございません。ですが、当店でおくつろぎいただく間、ぜひともワタクシの質問にお答えいただきたいと思いまして」


「……質問ですか」


「はい」


 ワタクシは単刀直入に尋ねます。


「先ほど見せていただいた携帯端末、あれはどこで拾われたのですか?」


 この質問は彼を喫茶店に留めるための単なる時間稼ぎなのですが、ワタクシが予想する紛失場所との答え合わせの意味も兼ねています。


 ワタクシが携帯端末をなくしたのは、先週末のことです。その日、ワタクシは月ノ下商店街の十字路付近でウエディングドレスを着た女性と衝突してしまいました。携帯端末はその時に落としてしまったと予想しています。


「こ、これは月ノ下商店街で拾ったんです」


 彼は答えました。


「具体的な場所は覚えていますか?」


「……そうですね。地下街を出て商店街のアーケードを真っすぐ進むと突き当たりに十字路がありますけど、この携帯端末はちょうどその辺りで拾いました」


「……なるほど。では、ウエディングドレスを着た女性が商店街を走っている姿も見たのですね」


「ミ、ミテナイデス」


「ですが、あんなにも大騒ぎに――」


「知りません。ウエディングドレスを着た人が商店街を走っているわけがないじゃないですか」


 彼はカップに視線を落としたまま、やけに早口で否定しました。


「……そうですか。ですが、それでは――」


 ワタクシは話を続けます。彼の供述には一つの矛盾点があるのです。


「なぜあなたは携帯端末の持ち主が分かったのですか?」


「……え⁉」


「ワタクシはてっきり、あのドタバタ劇の中で……その、彼女が携帯端末を落とす瞬間を見ていたとばかり……」


「え、いや、その、えっと……やっぱり僕は商店街を走る花嫁さんを見かけました。あの携帯端末は僕が拾ったわけではなくて……実は彼女のポーチに紛れ込んでしまっていたんですよ。僕は彼女から持ち主にお返しするよう頼まれたというわけです。アハハ」


「そうだったのですね。ですが、会ったこともない持ち主を捜すというのはとても難しいことのように思うのですが」


「そ、そうですね。一応、彼女から持ち主さんの特徴は聞いていますけど」


「ちなみに、その女性はご主人様とどのようなご関係なのですか?」


「えっと、それは……当たらずといえども遠からぬ親戚というか、盃を交わし合っていそうな兄妹というか――」


「つまり、あの女性はご主人様の実妹さん、ということですか?」


「そ、そうなのかもしれませんし、そうじゃないのかもしれません」


「……何だかよく分からないですね」


「すみません……」


「やはり本来の持ち主と親交があるワタクシが手渡すべきだと思うのですが……ここはぜひとも携帯端末をお預かりさせてください」


 ワタクシはそう言うと、彼の隣に置かれた学生鞄を手に取りました。


「あ、ちょっと、これは僕が直接手渡しますから」


「いえいえ、これはワタクシがお渡ししておきますので」


「いえいえ、これは僕が」


「いえいえ、これはワタクシが」


「いえいえ、僕が」


「いえいえ、ワタクシが」


「「いえいえいえいえ――」」


 一見して気弱そうな彼ですが、一向に学生鞄を手放そうとしません。なぜ彼がこれほどまでに執着しているのかは分かりませんが、閉店後の喫茶店で学生鞄の引っぱり合いをしていたワタクシたちは、いつの間にか背後に立つもう一人の存在に気付くことができませんでした。

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