第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その三



    ★



『――校則でアルバイトが禁止されているなら、変装して働けばいいじゃない』


 あれが悪魔の囁きだということは分かっていた。


 だけど、ウチはその言葉に応じるしかなかったんだ――。


 今年度から工業高校に入学したウチはアルバイトをする気なんてさらさらなく、肩肘を張らず適当に学校生活を送るつもりでいた。


 確かに、ウチは常に金欠状態だ。小遣いと呼べるものは母ちゃんが手渡してくれる文房具代くらいで、自分のために何かを買うなんてことはもう何年もしていない。髪は母ちゃんに切ってもらっているから、美容費はタダだ。


 ……言っておくが、くれぐれもウチを惨めな娘だなんて思わないでくれよ? ウチは別に欲しい物なんかないし、今の生活で十分満足しているんだから。


 父ちゃんが死んでから、もう三年がたとうとしている。ただでさえ貧乏だった家がもっと貧乏になったことは紛れもない事実だが、専業主婦だった母ちゃんが事務職の派遣社員として働き始めたおかげで、ウチと兄貴は何とか高校に通えている。一日三食、腹いっぱいに飯を食わせてもらっているし、雨風が凌げるアパートの一室で毎日安全に暮らすことだってできているんだ……これ以上、幸せなことはないだろ? 


 それに、今月は本当に嬉しい出来事があったんだ。何だと思う? それはな……自転車だよ。じ、て、ん、しゃ! 母ちゃんがウチに内緒で買ってきてくれたんだ。安いママチャリじゃねえぞ? ほかの同級生の子たちが乗っているようなちょっとお洒落な自転車だったんだ。兄貴が高校に入学した時は買ってあげられなかったからって母ちゃんは言っていたけど、ウチも兄貴もそんなことは一ミリも気になんかしてないし、そうやってウチらのことを思ってくれているだけで嬉しい。兄貴は、車輪の力で楽をするだけの乗り物には負けんとか言って使う気はなさそうだし、いよいよその自転車はウチ専用の乗り物になったんだ。


 だけど、このサプライズには一つだけ問題があった……ウチは自転車に乗れないんだ。


 正しくは、ウチは生まれてから一度も自転車に乗ったことがなかった。ウチが小学生だったころ、一輪車なんてものが女子たちの間で流行ったが、あんなのはもってのほかだ。二輪の自転車に乗れないウチが一輪車なんて乗れるはずがなかった。ウチはいまだに、一輪車に乗っていた彼女たちのことを、悪のサーカス団が刺客として送り込んだ子役スパイだと信じている。


 とまあ、そんなこんなで、ウチは、母ちゃんからプレゼントされた自転車に乗ることはなく、しかし、どこに行くにも必ずそれを押して歩く生活を送るようになった。近所の子供たちはいともたやすく自転車を乗りこなしているんだ。ウチもいつかは乗れる日が来るだろうと自分の将来に少しだけ期待していた。


 ――あの忌まわしい、週末の出来事が起きるまでは。


 四月中旬の週末、時刻は正午ごろだった。ウチはいつものように自転車を押して月ノ下商店街を散歩していた。行きつけの本屋で漫画雑誌を立ち読みした後、近所の河原で自転車に乗る練習をしようと考えていたんだ。


 先週末はサドルに跨って地面を蹴るくらいしかできなかったが、今日こそは両足でペダルを漕いでみせると頭の中で念入りにシミュレーションをしていると、正面からウエディングドレスを着た女の人がぶつかってきた。考え事をしていたウチは彼女のことを避けることができず――結局、ウチは自転車を放りだして盛大に転んでしまった。


 幸い、二人に怪我はなかった。彼女はウチに頭を下げて謝った後、慌ててタクシーに乗り込み、そのままどこかへ走り去ってしまった。


 ……そのすぐ後のことだ。兄貴がウチの自転車に乗って、そのタクシーを追いかけていったのは。


 当然、自転車の練習は中止となり、手持ち無沙汰になったウチは商店街の本屋で時間を潰すことにした。


 そして、日が暮れたころになって、ボロボロの兄貴が商店街を歩いている姿を見つけた。兄貴が担いでいたのは、さっきまで自転車だったはずのがらくただった。フレームもタイヤも酷く歪んでいて、それはまるで建物の屋上から放り投げられたようなありさまだった。こんなにも激しい壊れ方では、もはや修理することは叶わない。ウチは兄貴を商店街の真ん中に正座させ、小一時間ほど説教をしたが、それで自転車が戻ってくるはずもなく……まだ買ってひと月もたっていないのに。


 結局、ウチはこの件を母ちゃんに告げる決心がつかなかった。ウチが自転車に乗れなくなることは百歩譲って目を瞑ってもいい。問題は兄貴が持ち帰ってきた産業廃棄物同然の自転車をどうするかだ。隠ぺいするにも、道端に捨て置くわけにはいかないし……。


 ウチが頭を抱えていると、近くの路肩に一台のタクシーが停まった。中から出てきたのは、ウエディングドレスを着た女の人だった。


 だけど、その人は、ウチとぶつかった女の人ではなかった。


 しかも、よく見ると、彼女はウチがよく知る人物だった。ウエディングドレスの裾を持ってこちらに駆け寄ってくる彼女はウチの幼馴染の実姉に当たる人だったんだ。ウチと兄貴は昔から彼女のことを幸子姉さんと呼んで慕っていた。そんな彼女は、ボロボロになった兄貴の下に駆け寄り、涙目で感謝の言葉を告げていた。その後ろには彼女の結婚相手らしきタキシード姿の男の人が立っていた。


 兄貴が追いかけていたのは、結婚式とは無関係の人で、本物の花嫁は幸子姉さんだった……何だかよく分からない状況だが、どうやら兄貴は何かのトラブルに巻き込まれていたらしい。兄貴は困っていた幸子姉さんを助け、自転車はその時に壊れてしまった……それならそうと早く言ってほしかったんだけど。ちゃんとした理由があるなら、わざわざ説教をする必要はなかったんだ。


 幸子姉さんはウチに自転車を弁償すると申し出た。ウチがその申し出を断ると、今度は彼女の実家が営む喫茶店でアルバイトをしたらどうかと提案してきた。彼女はウチの家計が逼迫していることを知っていたんだ。


 だけど、工業高校は生徒のアルバイトを禁止している。ウチがその提案も断ると、幸子姉さんはもう一度自転車の弁償を申し出た。


 ……そこまで言ってくれるなら。ウチはようやく幸子姉さんの申し出に頷くことにした。


 その時、幸子姉さんの背後から何者かがひょっこりと顔を出した。


「校則でアルバイトが禁止されているなら、変装して働けばいいじゃない」


 そう言ったのは、ウチの幼馴染のきよだった。


「うちの喫茶店、最近コスプレを始めたのよ……あなた、本当は好きなんでしょ? 可愛いの」


 ――そして、今に至るわけだ。壊れた自転車は喫茶店の駐輪場に保管してもらい、ウチは赤髪ロングヘアのウィッグを被り、シックなデザインのメイド服に身を包んでいる。正直なところ、悪い気はしない。むしろ清々しいくらいだ。


 ……実を言うと、本当はこういった可愛い格好に憧れていたんだ。柄じゃないかもしれないが、変装してしまえば、ウチは、もうウチではない。おしとやかな喋り方だってお手の物だ。


 工業高校で『お譲』と呼ばれるウチは――いえ、ワタクシはここ超喫茶エウロパで『イチゴちゃん』という、もう一人の人格を演じることになりました。

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