第55話 『誠の声が消えぬ町――壬生寺周辺の新選組譚』

 京都・壬生。


 駅を降りると、観光案内の地図が設置され、土産物屋や町家カフェが点在する。けれどどこか、空気が重たい。日常に混ざりきらない何かが、この町の底に澱のように沈んでいる。




 その中心にあるのが壬生寺。


 かつて新選組が屯所を構え、鍛錬と血の汗を流した場所。観光地として整備された境内では、今も多くの歴史ファンが写真を撮るが、地元の人間は決して日が暮れてから足を運ばない。




 「誠の声が、聞こえるんですわ……夜中になると、裏塀のほうから、ね」




 そう囁くのは、壬生通り沿いの飴屋を切り盛りする老女。彼女の目は、どこか遠くを見ているようだった。




 ある蒸し暑い夏の夜。


 女子大学生・志乃は寝つけずに、マンション近くを散歩していた。Tシャツに羽織ったカーディガンすら鬱陶しい湿度の中、彼女は涼しさを求めて壬生寺の脇道を通った。




 虫の声がかすかに響く。人通りは少なく、街灯が照らす石畳には風もない。寺の黒い塀が、空に溶け込むように静かにそびえていた。




 ――そのとき、ぴたりと足が止まった。




 鼓膜に震えるような、低く張り詰めた男の声が、塀の向こうから聞こえたのだ。




 「隊士、点呼……一番! 二番! 三番!」




 最初は、どこかのドラマのセリフかと思った。


 けれど、耳をすませばするほど、それが“生々しい”とわかってくる。怒鳴るのではない、凛とした抑制された命令の声。その緊張感に、志乃は思わず息を呑んだ。




 スマホを取り出し、録音しようとしたが、指が汗ばみ震えて操作がうまくいかない。


 「四番……!」




 声が一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる気配がする。


 壁の向こうに、確かに“それ”がいる。誰かが、足を運びながら点呼を続けている。姿は見えないのに、確かな気配が肌に突き刺さるようだった。




 喉が渇く。足が動かない。心臓の音がうるさいほど響いている。




 「……ッ、やばい」




 志乃は我に返り、まるで何かから逃げるように走り出した。サンダルが石畳を叩く音が、夜の町に虚しく響いた。







 翌朝。


 志乃は、ネット掲示板に“壬生寺で点呼の声を聞いた”という体験を書き込んだ。


 すると、数年前に書かれた似た投稿を見つけた。




 〈夜十一時。壬生寺裏。誰もいないのに隊士の点呼。五番まで続き、最後に『報告、死者一名』と聞こえた〉




 投稿者はその直後、原因不明の熱病で入院とだけ記され、それ以後、書き込みは途絶えていた。




 志乃は震えながらスマホを伏せ、もう一度、昼間の壬生寺を訪れた。


 境内は修学旅行生や観光客で賑やかだった。お守りの授与所からは笑い声が響き、どこにも“あの声”の影はない。




 だが、隊士の慰霊碑前を訪れた瞬間、志乃は鳥肌が立った。


 この町には、確かに“声”が生きている。


 時間を超えて命令を下し、死者すらも名を呼び続ける誰かが、今もそこにいる。




 忘れられた誠の隊士たち。


 歴史の裂け目からこぼれ落ち、なお職務を続ける者たちが、この町にはいる。




 志乃は、もう夜の壬生寺を歩くことはなかった。

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古都怪異帖(千年の時を超えて語り継がれる、京都の怪異譚集) カトラス @katoras

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